「こうたん、指名のミッションだよ」 「え?」 「子供だけが壁のような物に阻まれて家から出られんのだ!」 恰幅の良い中年の男がわめき散らす。 その話を聞いている青年は首を傾げ、赤くなったり青くなったりする男の顔を眺めた。 「はぁ、それで、魔物の姿なんかは見えたりしましたか」 「か、蛙のような、でもなんだかドロドロしていて…」 「不定形ですかねぇ…。でもそんな低級の魔物に障壁が張れるのかな…」 恐怖を思い出したのだろう、ひどく顔色の悪い女だった。その肩を支える男も再び顔が青ざめている。 「まぁ入れば解るか。……で」 一旦言葉を切り、青年は夫婦に顔を近づけた。縦に切れた瞳孔が迫る。 獣に似た魔眼に見つめられ、二人は息を飲んだ。 「お子さんがブラデニウムをお持ちだというのは本当ですか」 「む、娘が、いつも持ち歩いている……クマのぬいぐるみ、の、おなかの中に……」 途切れ途切れに紡がれた言葉を拾い集め、青年は「なるほど」と頷いて問題の家屋に向き合った。 魔眼のプレッシャーから解放された夫婦もまた、不安そうに寄り添って魔物の領域と化した自宅を見つめる。 「ど、どうか、お願いします」 「大丈夫ですよ。お子さんもブラデニウムもまだ無事です」 震える声で嘆願する女に、青年は微笑み返した。「でも最悪ブラデニウムは回収したいなー」と、胸中で付け足して。 半分が吸血鬼である彼はその生い立ちも手伝ってか、人間と倫理的な価値観をなかなか共有し難かった。それをわざわざ口に出さなくなった分、自分も成長したものだと彼は思う。 そんな青年の思考を読み取れるわけもなく、女は続けた。 「それで、あの、バランサーの中でも特殊な方をお願いした理由なのですが」 「娘は極度の人見知りで、知らない人間が相手だとテコでも動かんのだ」 今にも倒れそうな女をかばって、男が言葉を挟んだ。 「我々が頼んだと説明しても、恐らく」 「でも、小動物は大好きで……」 「あぁ、なるほど。指名された意味がやっと解りました」 つまりは、少なくとも人間の形をしていては、まともに子供を救出できないのだった。 短い説明で事情を理解した青年に夫婦は恐怖を交えた視線を送り、女が震えながら小さなハンカチを手渡した。 そういう扱いには既に慣れっこだったので特に気にせず、しかしハンカチは気にする青年。 「これは?」 「娘が、私の誕生日に、くれました…。これを持っていれば、あの子は恐らく話を聞くと思います…」 「あぁ……なるほど……?」 青年はその意味を理解できずに再び首を傾げ、ひどく深刻な顔で考え込みながら夫婦の家に歩み寄った。 開いたままの玄関は闇を湛え、魔物に特有の気配を吐き出している。 彼は敷地の境目にあたる空間を人差し指でなぞった。確かに、壁……と言うより膜に近い感触の物質が形成されている。だが、その指に魔力を纏わせて爪を立てた途端にぷつりと表面は破れ、ゼリー状の壁に指が食い込んだ。 「ナメられてるんだろうか」 呆気にとられて思わずそんな事を口走ってしまう青年だったが、一方の闇中に潜む気配はじっと動かないままだ。 「えーっと、じゃあ、遠慮なく」 障壁を数回ぶよぶよとつついた後、彼は入り口から数歩下がって右足に魔力を纏わせる。 左足が強く地を蹴り、「御邪魔します」という呟きの刹那。 強烈な冷気を帯びた回し蹴りが炸裂した。 「やりすぎた」 爪で事足りる強度だったのだから、当たり前である。 障壁の中心を捉えた蹴りは、余った力で分厚い木製のドアもついでに吹き飛ばしていた。 せっかく開いたままでいたというのに、難儀なものだ。 「威嚇ですよォー」 青年はわざとらしく声を上げ、夫婦と目が合う前に言葉を繋ぐ。 「そうだ、お子さんは……大型犬はお好きですか?」 「いや……大型犬は怖がって」 あまりに関係ない流れに、男は呆然としながら答えた。女に至っては気絶寸前である。 青年としてはどの姿でミッションに挑むかを決める重要な質問だったのだが、この流れで民間人に理解しろという方が無理だった。 夫婦の様子をさして気にとめた様子もなく、彼は輪郭を変化させる。 「近くで見ると案外かわいいでしょう? コウモリ」 青年が変化したコウモリは、パタパタと男の周りを飛び回る。 「大丈夫なのか、そんな」 小さな姿で、とコウモリを凝視して、男が不安そうに呟いた。 「まぁ"ノクターン"の煌夜にお任せください。あ、それとハンカチ」 首に巻いてもらえませんかね、と言い、コウモリは男の頭に着地した。 数分後、首にレースのハンカチを巻き付けたコウモリが完成した。 「なんというメルヘン……しかし仕方ない」 再び空中に戻って魔物の巣窟を眺め、コウモリは呟いた。 「僕の夜を荒らすのですから、魔物には相応の報いを受けてもらわないと」