Innocent Devil 〜ブラック・クリスマス〜
高城 月
その施設は、訳有りの子供が暮らす場所だった。孤児となった彼等は、その肩書き故に引き取り手がいなかった。その為、彼等は自然とその施設に集まってきた。
彼等はとても純粋だった。
本を読むのが好きな子供。絵を描くのが好きな子供。お菓子が好きな子供。走るのが好きな子供――
彼等自身は、何処にでもいる普通の子供だった。……「普通」と言うには些か心が幼かったが。
何処にでもいる普通の子供だったから、色々な物を信じていた。魔法を信じた。お化けを信じた。神を信じた。悪魔を信じた。愛情を信じた。夢を信じた。そして……
◆◇◆◇
それは丁度、時計が三時を指した時。
鳩時計が鳴いたその時。
彼女はツグミにこう言った。
「ねえツグミお兄ちゃん、サンタさんっていると思う?」
少女の無邪気な質問に、ツグミは曖昧に微笑んだ。
少女は今年で十歳になる。その質問は、一般的なその年齢の子供のものにしては些か幼過ぎた。この施設は少々特殊で、社会から殆ど隔絶された状態にある。その為か、この施設の子供達の精神の発達は、一般的なものに比べると遅い。
ツグミは、去年此処に入ってきたばかりなので、サンタクロースの正体を知っている。だが、この一年でツグミは、此処の子供には一般的な社会の常識は通用しないということを学んでいた。
少年は、少女に真実を教えることはしなかった。少女の夢を、壊したくなかった。
「うーん。どうだろう? 会ったこと無いからなぁ……崇子ちゃんはどう思う?」
そうはぐらかして、逆に少女に問う。すると、少女――崇子はぱっと顔を輝かせて、
「わたしはね、会ったことあるよ!」
と誇らしげに言ったのだった。小さな子供が見栄を張って嘘を吐いたり、夢と現の境が判らなくなることはよくあることだ。だからツグミは、笑顔のまま「へえ、凄いね!」と感心してみせた。
「ふふっ。赤いお洋服を着ていたの! 誰も信じてくれないけれど、サンタさんだったよ!」
崇子は嬉しそうに笑っていた。
ツグミは、何故いきなり崇子はそんなことを言い出したのだろうと考えて、今日がクリスマスイブだったことを思い出す。
すっかり忘れていた。この施設はイベントを開いたりしない為、ツグミはそういった行事を忘れてしまっていた。幼い頃から此処で生活している子供は、クリスマスやお正月などの行事は本で知る。此処に入ってくる以前にも、様々な理由からそういった行事を祝ったことが無い者は、この施設には大勢いた。
ツグミも、彼の家があまり平和的ではなかった為、生まれてこの方クリスマスを祝ったことが無かった。
だから、子供の為に態々サンタの恰好までするなんて、手の込んだ親だと、ツグミは可笑しくなった。夜中にプレゼントを置いていくとき、子供に見つかったときの言い訳の為にサンタの恰好をする親がいると、ツグミは随分前に聞いたことがあった。きっと、崇子の親は彼女をとても大切にしていたのだろう。彼女のことが羨ましくなった。
「そっかぁ! 良いなー」
「えへへ」
彼女の笑顔は、とても輝いていた。
不意に彼女は真面目な表情になって、何かを決心したように、ツグミに言った。
「あのね、本当は秘密だけど、ツグミお兄ちゃんには特別に教えてあげるね」
崇子は、自分よりも背の高いツグミをしゃがませて、そっと耳打ちした。ふらふらと、不安定な爪先立ちの足で懸命に立ちながら、そっと。
「わたしね、サンタさんになる方法、知ってるんだ」
ツグミは彼女の親がサンタの恰好をしている光景を想像した。ひょっとしたら、既に崇子はサンタクロースの正体を知っていたのかもしれない。サンタになる方法――崇子の親は、彼女にその姿を見られたのだろうか……? 堪えきれず、クスリと笑う。
「だから今夜、わたし、サンタさんになるんだ! サンタさんになれば、幸せになれるんだって、サンタさんが言ってたの! フフ……あははっふふ」
少女は笑っていた。
無邪気に
笑っていた。
◆◇◆◇
ある所に、何も知らない純粋な少女がいた。
又ある所に、汚れを知って絶望した少年がいた。
そして彼等は、唯一つの共通点によって、ある施設で出会った。
少年はこの施設がどんな所だか知っていた。だから、少女が幸せなどというものを語る姿が可笑しくて仕方なかった。この施設に入れられている自分達が、幸せになれる筈がないのだと理解していた。この施設にいるということがどういう事なのか、少年には分かっていた。
だが、少年は忘れていた。この施設にいる者がどんなに純粋に人を信じているか。そして、どうしてこの施設に入れられたのか。彼等のあまりにも無邪気な笑顔に、少年や施設の大人……そして、彼等自身でさえも忘れていたのだ。
この施設にいる純粋な者達が、その心に抱えている傷を。少年が抱えているのと同じ傷を、負っているということを。
「サンタさんはね、わたしに幸せをくれたの」
無邪気に笑う少女の服は、赤かった。
それは、丁度時計が十二時を指した時。
鳩時計が鳴いたその時。
突如として、悲鳴が夜を切り裂いた。
驚いて目を覚ましたツグミは、その声が崇子の部屋の方から聞こえてくるのに気が付いて、慌てて部屋を飛び出した。廊下を走り、崇子の元へと急ぐ。他の者達も目を覚まして、悲鳴のする方へと走る。その間にも、悲鳴が上がり続けていた。
ツグミは走りながら、ふと少女の言葉を思い出した。
『だから今夜、わたし、サンタさんになるんだ! サンタさんになれば、みんな幸せになれるんだって、サンタさんが言ってたの!』
楽しげな少女の笑い声が脳内に響き渡る。
『フフ……あははっ、ふふ』
ツグミは扉の前で立ち止まった。
びちゃり、びちゃり、ぶつり、ぶつ、
生々しい音が聞こえた。
何かが切れる音。何かが落ちる音。何かが跳ねる音……。
恐る恐るドアノブに手を掛けた。がたがたと身体が震える。深呼吸をして、少女の笑い声と共に頭に響く心臓の音を鎮めようと努力する。しかし、
「フフ……あははっ、ふふ」
頭の中に響いていたその声は、今度は外側から響いてきた。小さいながらもはっきりと、その笑い声は聞こえてきた。その部屋の中から、彼女の声が聞こえてきた。
何かが切れる音。何かが落ちる音。何かが跳ねる音……生々しい音が聞こえる。
びちゃ、びちゃり、ぶつり、びちゃり
「崇子ちゃん?」
……ぶつん。
音が途切れた。
「お兄ちゃん?」
部屋の中から声が掛かる。いつも通りの無邪気な声。
「そうだよ」
震える声を抑えて、何でも無いように振る舞う。
ツグミはそして、扉を開けた。
「メリークリスマス!」
赤い服を纏った少女は、笑顔で彼を出迎えた。
真っ暗な部屋。彼女はその真ん中に、一人佇んでいた。生臭い匂いが充満している。
彼女はびちゃびちゃと足元の液体を弄びながら、楽しげに微笑んでいた。
「サンタさんはね、お母さんだったの。夜中に大きな音がして、そしてらお母さんが赤い服を着て立ってたの。お母さんは、サンタさんだったの」
崇子は「おやつのとき話の続きだよ」と言って語り出す。
「お父さんはね、意地悪で、いっつもわたしたちを傷付けた。お母さんはいっつも泣いていた。わたしも泣いていた。お母さんは、でも、幸せになる方法を見つけたの」
ツグミは気付いた。
崇子の後ろに誰かがいることに。視界の隅に、赤い影が映る。
「お母さんはね、サンタさんになって、お父さんとわたしとみんなで幸せになろうとしたの。サンタさんはクリスマスにプレゼントをくれるでしょ? だからお母さんは『幸せをください』ってサンタさんにお願いしたの。わたしも一緒にお願いしたの。でもね、お母さんはとちゅうで気付いたの」
暗闇の中に、崇子と同じ赤い服が見えた。その赤はしかし、崇子の着ているものとは違い、黒ずんでいた。
ツグミは、その赤が何の赤か知っていた。彼はその赤を以前も目にしたことがあった。
「お母さんがサンタさんになって、お父さんを『幸せ』にすれば、きっとお父さんもお母さんを『幸せ』にしてくれるって。それなら、家族みんなで『幸せ』になればいいって」
崇子の背後から現れたのは、赤い服を纏った青白い女。彼女の手に握られた何かが煌めいた。
「でもね、失敗しちゃったの。わたしだけ、サンタさんになりそこなっちゃったの。わたしだけ、白いままだったの。だからね、お母さんは……」
女は優しい微笑みを浮かべながら、その手に握ったナイフを構えた。
「今日、わたしをサンタさんにしてくれるんだ!」
少女は笑っていた。
無邪気に
笑っていた。
◆◇◆◇
ある所に、何も知らない純粋な少女がいた。
少女と少女の母親は、父親から日常的に暴力を受けていた。少女にとってはそれが当たり前で、母親も「お父さんは忙しいから、大変だから、私達をなぐるのよ」と泣きながら少女に言い聞かせていた。だから少女は、苦しみに、痛みに、耐えた。それが普通だと思っていた。それが彼女にとって、産まれたときからの日常だった。
少女は何も知らなかった。外に出たことが無かった。出されなかった。少女にとって、家の中のことが全てで、後は無いも同然だった。ある日母親が外の話をした。家の外には楽しいことが沢山あるのだと。けれど少女には「楽しい」が何か分からなかったので、母親に尋ねた。すると母親は、「ごめんなさい」と繰り返し、少女を強く抱き締めた。
彼女の日常が変わったのは、彼女が六回目の冬を迎えたときのこと。少女はテレビや新聞、本等から、外の世界を少しずつ知り始めていた。そして、その日は丁度クリスマスイブだった。少女は母親と二人でサンタクロースにお願いをした。
その晩、少女は大きな物音と悲鳴で目を覚ました。驚いて居間に駆け付けると、サンタクロースと同じ、赤い服を着た母親と、同じく赤い服を着た父親がいた。父親は何故か床に寝転んでいた。少女は思った。
「サンタさんはお母さんだったんだね!」
母親は驚きに目を見開き、そしてその表情はやがて微笑みに変わった。
「そうよ。お母さんはサンタさんになったの」
そう言って、少女を抱き締めた。
「お母さんがサンタさんになってお父さんを幸せにすれば、お父さんもお母さんを幸せにしてくれると思ったの」
少女は、サンタクロースになれば「幸せ」になれるのだと知った。だから、少女は母親にせがんだ。
「わたしも『幸せ』にして!」
母親はやはり微笑を浮かべたまま、
「分かったわ」
と答えた。それは、とても優しい笑顔だった。けれど、その後、黒い服を着た大人達が家に上がり込んできて、少女をサンタクロースにしようとしていた母親を押さえ込み、少女はそれから暫く後に、ある施設に入れられてしまったのだった。
母親から「一緒に幸せになりましょう」という手紙が少女の元に届いたのは、それから数年後のことだった。
又ある所に、汚れを知って絶望した少年がいた。
少年は貧しいながらもそれなりに幸せな生活を送っていた。その幸せは、いつ崩れてもおかしくない、危ういものであったが……。夫婦喧嘩は日常茶飯事で、家の壁やドアに穴が沢山あった。少年の家は貧しかった為、少年は学校でいじめの標的となっていた。
それでも少年はそんなものは気にしなかった。少年は、理不尽に慣れてしまっていたのだ。夫婦喧嘩が終わると、父親と母親はまた何事も無かったかの様に普通の生活を始めた。しかしその前に、少年は必ず二人から暴力を受けた。そんな生活を続ける内に、理不尽な暴力には慣れてしまったのだ。最早少年は、人を殴ることにも、人に殴られることにも、何も感じなくなってしまっていた。少年はそして、殴られる度に言われる言葉で、自分が望まれて生まれてきたのではないと知った。少年はそれを知ったとき、久し振りに胸が痛むのを感じた。
そんな彼の日常が変わったのは、ある日の放課後のことだった。帰宅した少年を待ち受けていたのは、赤に塗れた部屋と、倒れて動かない男と、怯える母親を押さえ付けて、包丁を振り翳す父親の姿だった。
父親が振り向いて、二人の目が合った。父親の瞳はギラギラと燃えていた。
「お前、これを知ってたのか? 知ってて黙ってたのかっ?」
父親が何を言っているのか分からず、少年は震えながら首を横に振った。今まで見たことがない程の怒りであった。
「そうか」
父親のその科白は酷く落ち着いたものであったが、湧き上がる怒気を必死に押さえ付けている様であった。
少年は、父親が「これ」と指したものが何か分からなかった。しかし、予想が付いてしまった。少年は貧しかった。いじめを受けていた。よく殴られた……。それでも、何も無いときは、それなりに幸せだった。殴られても良いから、両親には仲良くしていて欲しいと願っていた。
少年は気付いてしまった現実から目を背けるように、懸命に首を振った。しかし、父親はそれを許さなかった。母親を片手で掴んだまま、もう片方の手で少年を自分の方に引き寄せた。少年を床に投げ捨て、父親は叫んだ。
「良いか、よく見ておけ。お前の母親はなぁ、俺を見捨てて他の男と付き合ってたんだ! お前の父親、俺、そして今度はそこで寝ている男と来た! 俺はもう我慢できねぇ! 良いか、そんな奴が死んだってなぁ、社会は全っ然構わねぇんだよっ!」
父親の手にした包丁が、母親の胸に吸い込まれた。その瞬間、少年の視界が赤く染まった。悲鳴が響き渡り、そしてそれは唐突に途切れた。
気が付けば目の前に母親が倒れていた。
「ついでになぁ……そんな奴から産まれたテメェも不要なんだよっ!」
少年は恐怖で腰が抜け、立てなかった。叫ぼうにも、喉が引きつって思うように声が出ない。必死に後ずさるも追い詰められる。涙が恐怖から流れているのか、それとも哀しみから流れているのか、少年には分からなかった。
少年に、赤く染まった包丁の切っ先が迫る。そして……
気が付けば、金jんどは父親が警官によってその場に押さえ付けられていた。
その後少年は、マスコミから逃げ、世間の好奇の目から逃げ、同情の目から逃げ、怯えを宿す目から逃げ……少年はその事件について触れようとする人間から、社会から、逃げ出した。少年は自ら望んで、ある施設に入居した。
少年はその事件の時から、何も信じられなくなった。
◆◇◆◇
「ごめんね崇子ちゃん」
僕は君の幸せを邪魔するよ。
でもね、
僕だって幸せになりたいんだよ。
銀色の煌めきが、くるくると弧を描いた。
ある年のクリスマスイブ。
深夜、雪が降り積もり、道と呼べないような山道を一人登る男がいた。男が脚を踏み出す度、ギシギシと雪が鳴る。時折、雪裂けの音が真っ暗な木々の間から聞こえてくる。
突然、男の目の前が開けた。
ぎしり……
音が止まり、辺りを静寂が包み込む。
男の目の前には大きな建物が建っていた。使われなくなったその建物は、塗装が剥がれてぼろぼろだ。錆び付いた扉が悲鳴を上げる。男は建物の中に足を踏み入れた。中は埃を被っていた。男が歩いた跡がくっきりと残る。建物の中は、その建物が機能していた頃のまま放置されていた。
この建物が壊されるでもなく残っているのは、社会がその存在を忘れている為だ。この場所は嘗て、殺人犯の子供で、その犯行現場を目撃してしまった子供を専門に受け入れる児童擁護施設だった。「殺人犯の子供」というレッテルを貼られた子供達は、その多くが社会での居場所を失った。そんな彼等を一つ所に集めて育てていた施設は、社会から疎外されていた――十年前までは。
男も亦、そこで暮らしていた者の一人だった。十年前、ある事情により閉鎖に追い込まれたこの施設は、その暫く後にこの土地を引き払った。入居者達は他の施設にバラバラに入れられ、皆新しい人生を歩み始めた。「殺人犯の子供」というレッテルは、何時しか忘れられていき、子供達も亦、何時しか自分達の過去と共に、その施設のことを忘れていった。
しかし、男は決してその施設のことを、嘗て自分の身に起こったことを、忘れることはなかった。男は毎年、イブになるとこの場所を訪れる。この施設が平和であった最後の日に。
男は自分が少年だった頃に使っていた部屋へと向かった。彼が生活していた頃のままの内装。
男は腕時計を見た。
間もなく日付が変わる。
それは丁度、時計の針が十二時を指した時。
鳩時計の鳴き声がした。
聞こえる筈の無い音がした。
男は目を見開いた。咄嗟に、一人の姿が思い浮かんだ。あの日の純粋な少女の姿が脳裏を過ぎる。笑い声が聞こえた気がした。
『フフ……あははっ、ふふ』
男は走った。
部屋の前に立ち、彼女の名を呼ぶ。
中から無邪気な声がした。
◆◇◆◇
誰もが忘れ去った場所に、その施設はある。
その施設は、訳有りの子供が暮らす場所だった。孤児となった彼等は、その肩書き故に引き取り手がいなかった。その為、彼等は自然とその施設に集まってきた。
彼等はとても純粋だった。
本を読むのが好きな子供。絵を描くのが好きな子供。お菓子が好きな子供。走るのが好きな子供――
彼等自身は、何処にでもいる普通の子供だった。……「普通」と言うには些か心が幼かったが。
何処にでもいる普通の子供だったから、色々な物を信じていた。魔法を信じた。お化けを信じた。神を信じた。悪魔を信じた。愛情を信じた。夢を信じた。そして……
La fin.