青春謳歌人 高城 月
ほんのりと暖かい桜の季節。
佐伯亮介はおよそ四十年振りに故郷へと戻った。
古いポスターが忘れ去られたまま残る、ボロ屋のような質素な駅。駅改修のお知らせと、おそらく町おこしの宣伝ポスターと思われる張り紙だけが真新しくて、妙に目立つ。線路の横は山。寧ろ、ここが既に山の中。辺りには桜が美しく咲き誇り、土筆は杉菜へと姿を変えている。駅から少し見下ろすと、さして日本の経済発展による影響も受けた様子が無い、美しい田園風景が広がっている。鳥たちの平和な鳴き声が響くだけの、静かな場所。
懐かしさと心地良さを感じた佐伯は、久し振りに自然の空気を味わった。胸一杯に吸い込むと、それだけで、肺に溜まった都心の毒気が洗われていく気がする。
佐伯は暫く其処に立ったまま、目を瞑った。そしてそのまま、遠い過去へと意識を飛ばす。
――嘗てのここでの暮らし、その後の薄汚れた人生、裏切り……
つい昨日のことのように、瞼の裏に蘇る。おそらくは一生許されることがないその罪まで過去への旅が行き着いたとき、柔らかな風が彼の頬を撫でた。
佐伯はふっと息を吐き、漸く其処から動いた。かつては高級靴としてもて囃されたであろう、彼の傷だらけの靴が、今にも穴の空きそうな床を軋ませる。
(――俺はお前を裏切った)
その罪に気付いたときにはもう、彼はいなかった。
◆◇◆◇
佐伯亮介と吉岡悟は幼馴染みだった。二人は本当に仲が良く、何をするにも二人は一緒だった。
学校の裏山の少し奥まった場所に在る背の高い草むら。其処に小学生だった二人は『秘密基地』を造り、よく遊んだものだった。
調度、新年度の始まりの日。二人はいつものように秘密基地に来ていた。佐伯は唐突に立ち上がると、落書きだらけの教科書を掲げて元気よく叫んだ。
「絶対ぇ俺、これに載る!!」
その言葉に、佐伯よりも現実主義者だった吉岡は笑い転げ、佐伯はいじけて唇を尖らせた。
「バーカ! お前、どんだけ難しいか分かってんのかよ? 無理だって」
未だ笑い続けている吉岡の言葉は尤もで、常識的に考えたら無理だと、今なら分かる。しかし、小学生の佐伯にとっては遥に現実的な夢だったのだ。少なくとも、それまでの「正義の味方に成りたい」という夢よりは。
だから何時か、見返してやろうと思った。
最早、腐れ縁と言うべきか……。二人は小中高、果ては大学まで同じ所に通った。二人はそれぞれの夢を叶えるため、東京の大学に進んだ。
結局教科書に載ることは諦めたものの、元来野心家である佐伯は、大企業で活躍したいと、商業を学び始めた。吉岡は、弁護士を目指していた。家賃のことも考えて二人は一緒に生活した。
その生活はそれなりに楽しくて、その楽しさがどんなに貴重であるのか、その時はまだ気付いていなかった。「仲が良いですね」と言われる度に感じるむず痒さと喜びを、心に刻もうとは思わなかった。
そして遂に大学卒業を迎えた二人は、蕾を付け始めた大学の桜の木の下で、志を語り合った。
「俺、将来この国を創る!」
佐伯の純粋な野心。
「僕は、人を守れるような人間になりたい」
吉岡の純粋な願望。
春の中
小さな人間の大きな夢 二つ
此の世に生まれた
でも
春はとても短いもの
夢は儚く崩れるもの
花は咲けば散るもの……
二人はそして、それぞれの道を歩み始める――
数十年経ち、二人は再会した。
佐伯は会社の重役に上り詰め、吉岡は若手敏腕弁護士として有名になり、それぞれ注目を集めていた。
そして二人は次なる『夢』を語る。
「ずいぶん偉くなったな亮介。奥さんも良い人らしいしな」
「お互い様だろ悟? ……結婚以外は」
「おいおい、それを言うなよ……」
楽しそうに談笑する二人。
しかし、その間にある何かは、確実に何処か薄汚れたものになっていた。そして、それを特に気にすることはなかった。おそらく吉岡も同じことを感じていただろう。だが、何も言わなかった。
そこに在ったのは、穢れた大人の関係――
「やはり、国を変えるには政治家に成るべきだな。いや、実はとある政党に誘われていてなぁ……」
佐伯はソファにふんぞり返って、向かいに座る吉岡に言った。ちょっとした自慢話のつもりだった。吉岡に対する優越感もあった。佐伯は吉岡のことを友人だと思っていたが、同時にライバル視してもいたのだ。
しかし、その気持ちは次の瞬間消え去った。
「そういえば、僕も誘われててね……」
吉岡がそう言って続けたのは、佐伯に誘いをかけてきた野党と敵対する政党の名。現在の政治の中心である、与党の名。
「……そうか、俺はな――」
佐伯が教えた党名に、吉岡は何も言わず、唯、何とも言えぬ笑みを浮かべただけであった。
悲しみは、隠さねばならない。弱みを見せてはいけない。
それが、この世界の掟。だから…
しかし、どんな言い訳をしても、それをきっかけに二人の運命が変わったことは事実。この瞬間、二人の繋がりは音を立てて崩れ去った。
二人は新人議員でありながら、元々の職業でそうであったように、才能を発揮した。最初から知名度が有ったということもある。
彼らはライバルとして世間の注目を集め、何かと言っては対立するようになった。そして彼らが五十に成ったときには、二人は二大政党の有力議員に成っていた。その年の夏には総選挙が控えていた。
そんな時、事件は起きた。
……否、起こされた。
テレビでは、どの局でもそのニュースが大々的に取り上げられていた。
とりあえず点けたチャンネルで、リポーターの女性がカメラに向けて早口で喋っている。
『……先程午後1時頃、吉岡議員が何者かに狙撃されました。詳細は未だ不明ですが、犯人は現在逃走中とのことです。次の総選挙に向け……』
『詳しいこと』は自分が知っている。何故なら、全て自分が仕組んだことだから。佐伯が次の総選挙に勝つために。吉岡が二度と表に出られぬように……
と言っても、彼はほんの少し裏から手を回しただけ。吉岡に恨みを持つ人間を焚き付けただけ。結果その人間は人を雇って吉岡を狙撃させた。だが、佐伯は直接的なことは何も指示していない――
吉岡は一時的に視力を奪われた。どうやら、実行犯は閃光弾を使ったらしい。そのショックで神経が麻痺したそうだ。弾は足に当たり、杖無しに歩くことが出来なくなった。精神安定剤を服用するようになっていた。
どうにか回復したのは、調度、事件から2年後のこと。
庭の桜の木が見頃になった頃、吉岡の方から佐伯に会いに来た。
吉岡は仕事が上手くこなせなくなり、政治の世界から足を洗い、一般国民の一人になっていた。一方、事件のあった年の夏、見事政権交代を成し遂げ、与党議員になった佐伯は国務大臣に任命されていた。そんな彼が、唯の国民である吉岡と会う必要など無かったが、少しばかり残った良心からか、はたまた暇潰しか……何であれ、佐伯は吉岡に会った。
「いやはや……お久し振りですねぇ、吉岡議員! 怪我の方はいかがですか?」
我ながら皮肉っぽい言い方だと思う。しかし、長年の癖とはなかなか抜けないものなのだ。余所余所しい喋り方になってしまった。
対して吉岡は
「……久し振りだな亮介」
事件のショックからは完全に吹っ切れたようだった。寧ろ、政治家で無くなったことで生まれた自由を楽しんでいるようでもある。元通りの『吉岡悟』だ。その笑顔の裏にある翳りを除けば、だが。
「……もう政治家同士では無いんだったな。久し振りだな、悟――」
その時、一瞬でも胸が痛んだのは気の所為だ。
話している間、罪悪感は消えなかった。まだそんな心を持っている自分に驚きもした。だから、他愛もない話をして、何事も無く、嘘塗れの歪な空間に終わりが来ようとしたとき、佐伯はホッとした。
しかし、それはほんの束の間のこと。
吉岡を門まで送ると、彼は別れの言葉の後に続けた。それはほとんど独り言のような呟きであった。実際、そうだったのかもしれない。
しかし、何であれ、聞こえてしまったのだ。
「なんで……こんな事になってしまったんだろうね」
全身が麻痺した。
(知っていたのか、全て!! ――)
親友の寂しげな笑顔の意味を理解したとき、彼はもういなかった。
自分の罪の重さを自覚したとき、彼はもういなかった。
吉岡悟は行方を暗ませた。
此の世の全てが無気力な視界に埋もれた。
その後任期を全うした佐伯は、十数年前の浮気が発覚し、元から上手くいっていなかったこともあり離婚。社会的立場も悪くなり、とうの昔にやる気が失せていた彼は、ほぼ全財産を妻子とそれまでの愛人達に渡した。そんなことをしている内に、自分の愚かさに嫌気がさした。その被害に遭った人々に申し訳なく思った。60年以上の人生で初めてのことだった。
身分を隠し、政治からは一切身を引いて、普通の生活を始めた佐伯は、ある時、故郷の町おこしの記事を目にした。懐かしさと過去を裏切った罪の意識と、何かしらの予感のようなものから、佐伯は数十年振りに故郷の地を踏んだ。
うっすらと感じた予感は、どうでも良いと言えばどうでも良かった。
もう、とうの昔に一生その罪を背負う覚悟は出来ていた。
けれど、
願わくば
彼に再び見えたい
許しを得られぬとしても
唯伝えられれば それで良い
エゴであるとは百も承知 そう
時を戻すことは出来ないのだから……
ずっとそのつもりだった。
◆◇◆◇
春風が頬を撫でたとき、小学校の頃の夢を思い出した。教科書を掲げて立ち上がったときに吹いていたのと同じ薫りがする風。まだ純粋だった頃に触れていた……
歩き出し、駅を出る。そのまま向かったのは、廃校寸前の小学校の裏山。その茂みの奥にある、秘密の場所。子供たちの『聖域』。
まだ残っているとは思っていなかったので、その場所に辿り着いたとき、正直驚いた。其処には既に、誰かが来た形跡があったのだ。しかしまた、すぐに思い直す。
(これだけ経っているんだ。他の子供がその跡を使ったっておかしくない)
それは誇らしくあったが、寂しくもあった。
時が経つということに何度目かの悲しみを覚えた。時が経てば何もかも変わってしまう。自分の居場所は何時の間にか無くなっているかもしれない。どうしてだかそれは絶対の理で、必ずと言って良いほど人の心を鬱にする。勿論、良い方向に変わることもある。しかしそれでも、隔てられた空間が大きければ大きいほど、過去の苦しみさえもが時に懐かしく思える。
佐伯は、今は自分のものではない……自分が踏み込むことの出来ないその『聖域』を立ち去ろうとした。
そして気付いた。
ふと、踏み出した足の先を見ると、其処には自分のものではない、真新しい大人の足跡が、小さな足跡の上を横切っていた。
(この場所を知っている大人が来た――?)
その時、
ガサッガサッガサッ…
草を踏んで誰かが此方に向かってくる音が聞こえた。重たい足音は明らかに大人のもの。おそらくは、足跡の主。
佐伯は再び、何か予感めいたものを感じた。
無意識の内に、その名を呼んでいた。
「悟……」
十年振りの再会だった。
自己満足で良いと思っていた
でも、
それこそが自分の愚かさであると
会った瞬間 気付いた
何かを得れば
それ以上のものを求めてみたくなる
だって、
それが人間だろう?
それこそが昔と変わらぬ自分であると
思いを 言葉にした瞬間
気付いた
「亮介じゃないか! 久しぶりだなぁ!!」
そう言って笑った吉岡の笑顔を見た瞬間、唐突に言葉が突いて出た。
「すまない、悟」
そう言って、頭を下げた。
しばらく沈黙が続いた。
そして、
「いきなりそれかよっ…!」
吉岡は、嘗てあったように笑い転げた。
佐伯は口をポカンと開けたまま呆然と、彼が笑い終わるのを待った。
笑われるとは思っていなかった。本気で謝ったにも拘わらず笑われたことに、不思議と怒りは覚えない。唯、呆気に取られた。まるで、何も知らない子供のように、純粋に笑う彼に対し、戸惑いを隠せなかった。
やがて、吉岡は笑い止み、顔を上げた。口元には微笑が浮かんでいる。それは、何処までも優しい微笑みだった。
「良いんだよ。あの頃は道が見えなくなっていただけだ。お前も、僕も……。笑ってすまなかったな」
……そんな風に考えているとは思わなかった。
「恨んでは、いなかったのか……?」
そんな風に問うと、彼は若者のように肩をすくめて、答えた。
「昔はね。でも、結局こうなった原因は僕にも在ると気付いたから。どうして変わってしまったのかって、その答えが戻ってきて分かったよ…」
そしてそれは、きっともうじき自分にも分かる。そんな気がした。
自らの手で穢してしまった関係は
けれど 切れてはいなかった
きっと どちらも後悔していた
もう一度
やり直すことは 出来ないだろうかと
その時を待ち望んでいた
それから、歩きながら吉岡の十年間を聞いた。
あの後、身分を隠して故郷に戻ったこと。この町が財政破綻の危機にあること。町おこしのための活動を始めたこと。そして、最近になって漸くその資金が貯まって、計画を実行することになったということ。
佐伯も彼に、自分の十年間を話した。
調度、佐伯が話し終えたとき、吉岡の今の家に着いた。
小さな一軒家。昔、二人が住んでいた家にそっくりな、木造の家。田畑の匂いと、木材の匂い、山の花の香り。陽射しだけで電気は点けず、都会から出てきたばかりの佐伯には少し暗い。けれど、目を射るような真っ白な人工の明かりよりも好きだった。寧ろ陽射しを感じられる空間は、心地良かった。
帰ってきたという実感が湧いた。
そして、この故郷が愛おしく感じられてきた。60年の人生で、これも初めてのことだった。自分たちが純粋だった頃いた故郷。この場所だけが、佐伯の人生の中で唯一、変わらず存在していた。確かに住人の数は減ってはいるが、そんなことではなく、変わっていなかった。この場所だけが、今も穢れず、清らかであった。純粋だった。都会で傷ついた心を、こんなにも簡単に癒してしまえるほどに。壊れた絆を元通りに出来るほどに……
そんな場所が無くなるのは、ひどく惜しいと思った。
戻りかけている二人の関係。その過程を肌で感じながら、佐伯は決心した。
「吉岡……俺も、町おこしに参加する」
吉岡は一瞬動きを止め、それからまた、声を上げて笑い出した。
「ホントお前って、いつも急だよな!!」
佐伯は再び彼が笑い止むのを待つ羽目になった。
たぶん自分はとても我が儘で、自己中心的な人間なのだろうと思う。でも、だからこそ自分の気持ちをはっきり言えるこの性格が、今は良いと思えた。問題は、それで他人を困らせたり、迷惑をかけたりすることだ。しかし、それはきっと大丈夫だと思った。これからは側に止めてくれる友がいる。
「ありがとう。経営が得意な人がいると助かる」
その止めてくれる友は、笑って佐伯を受け止めてくれた。だから、きっと大丈夫だ。もう誰も、傷付けたりはしない――
「友達ってのは良いな」
きっとこの呟きは聞こえていない。
それでも良い。
思わず口にせずにはいられなかった、唯それだけ。
こんなに年をとっても、否、年寄りだからこそなのか……想うこと。大切にしたいと思う存在。どうしたって……
それから数年後のこと。
無農薬野菜や加工製品、植物の種など、その土地の特産品を販売する、ネット上の店が密かな反響を生んでいた。経営方法が良いのか、何処にでもあるような方法であるにも拘わらず、中々に繁盛している。最近は、不況で就職先に困っている若者の気持ちを掴もうと、様々な活動を行っていることでも知られている。
そして、その販売元である小さな会社が在る、小さな村。
そこに二人の老人が、毎日、楽しく明るく笑いながら生活していた。一人は会社の社長。一人は専務。社員は数名の中年達。暢気な会社。捨てられた田畑をもう一度、一から開拓し直して、普段はそこで農業を行っている。
無農薬野菜の栽培は、住民達を説得するのが大変だったが、元から人数も少なくなっていたため、時間はそれほど掛からなかった
二人はこの地に住み始めて、何度目かの春を迎えた。
もはや、何時死んでもおかしくない年齢である自覚はあった。だからこそ、今を楽しもうとしていた。まるで、再び青春が訪れたかのように……
「本当に仲がよろしいんですねぇ」
通りすがりに会う人々は口々にそう言った。
そんな時、二人は照れくさそうに笑って、こう言うのだった。
「友達なんですよ。もう70年近く」
その内何十年かは殆ど顔を合わせることは無かったし、十数年は長い間敵同士であったけれど。それでも、その間も、彼らはずっと、友人だった。
どんなに擦れ違っても、お互いを思いやる、何より大切な友人だった。
壊れたならば 穢れたならば
直せば良い 洗えば良い
青いと言うのなら 笑えば良い
だって 本当のことだから
だって 自分たちは
最期の青春を
謳歌する者なのだから――
La fin.