<21>
コンクールの学内選考まであと4日。
その為最近では朝早くから各場所場所で課題曲などの音色が富に大きくなり、
それが普通の時間に登校してくる生徒を出迎える。
はづきは自宅の自室を音楽用に改装してもらっているので、特に朝早く学校に来て音楽室の取り合いをする必要がない。
だが、今日のはづきはそんな生徒達と同じように早朝登校だった。
別に練習の為ではない。
昨日の圭とのやりとりの後それっきりになってしまったので、どうしても早く彼女に会う必要があったのだ。
会って、話したかった。 謝りたかったのだ。
いくらあんな言葉が圭の口から出たとしても、叩くのは・・・やりすぎた、と、昨晩は何度も後悔して寝返りをうった。
そしてそんな夜を耐えて、ようやく朝になったのだ。
はづきは飛び出すようにして学校に来た。
が。
圭は来ていなかった。 何処にも見当たらない。
(・・・いつも早朝練習しているのに・・・)
彼女はああいう性格から、何かと不真面目っぽく勘違いされるが、
実際ははづきが尊敬するくらい音楽に真剣で、真面目なのである。
そして努力家だ。
こういうイベントに関係なく、必ず早朝は彼女の音を音楽室で聞ける。
だからこそ、はづきは彼女のアレほどの激昂がよく分かる。
圭が言うから、あの言葉は重みを持ってはづきの心に深くのしかかるのだ。
結局、圭を捜し求めて校内をウロウロしていたが見つからなく、
教室に戻ってきた時は始業のチャイムも鳴ろうか、という時間帯だった。
席に圭の姿は無い。 ハナも居なかった。
他のクラスメイトは皆朝練からぼつぼつ切り上げてきて、揃いつつある。
そんな中なのだが、はづきはまるでこの教室にたった一人でいるような孤独感を感じていた。
はぁ、とため息をつき、机に顔を乗せる。
最近こうやって突っ伏すのが癖になりつつあるようだった。
すると間もなく、『おはよー』という待ちわびた声が教室内から聞こえた。
圭は友人達と声を交わしながら、自分の席についていた。
はづきは立ち上がる。
昨晩、ずっと悩み、考えていた台詞を頭の中で暗唱し、圭の後姿に近づいた。
一歩づつ近づく度、それは面白いほどかき消される。 ・・・自分の心臓の音に。
だが、言わねばなるまい、という意思だけは先行し、はづきの声は口を割って出た。
「圭ちゃん」
それは、驚くほど小さな声だった。 圭は気付かないだろう。
そう思って、はづきはもう一度生唾を飲み込み、声をかけようとしたが、
「おはよ、はづ吉」
と、圭は二度目の呼びかけを制してはづきの方を振り向いた。
「あ・・・」
機先を制された感じで、はづきは次の言葉を口から失う。
半ば固まりかけたはづきを見て、圭は微笑みながら言う。
「はづ吉、『おはよう』は?」
そのいつもと変わらない口調に、はづきは心底ホっとした。
「う、うん。 おはよう、圭ちゃん」
「うん、よろしい。 ・・・じゃあ挨拶が済んだところで・・・ 一人にしてくれないかなぁ」
その変わらない口調、そして笑顔で、圭はそう言った。
「・・・え・・・?」
「あのね、はづ吉。 アタシさ、これでも随分悩んだり考えたりしたのよ。
もう、頭テンパってるわけ。 今の状態で、これ以上アンタの話聞いたらどうにかなりそうなの。
悪いんだけどさ、そっとしといてよ」
「・・・」
「・・・アタシは放っておいてさ。 ホラ、アンタが行くべき相手はアッチでしょ」
圭はそういって目線と顎ではづきを促した。
おはようございます、というか細い声が微かに聞こえる。
ハナが静かに、登校してきた処だった。
はづきがもう一度圭に何かを言おうとしたが、圭は既に背中を向けていた。
そしてチャイムが鳴る。
「チャイム、鳴ったよ」
圭の背中がそう言う。 つまり、『もう帰れ』という事なのだ。
昨晩のシュミレーションは、すべて灰燼に帰した。
はづきはトボトボという足音をたて、自席に戻る事しか出来なかった。
ハナが『おはよう、はづき』と声をかけたが、それにさえ反応する事もできなかった。
HRが済むと、一限目は全校集会。
例の音楽ホールに勢揃いした高等部全生徒の前、壇上に一人の女性が上がってくる。
とたん、ハナが以前ホールに一人出た時よりも一際大きな歓声と拍手が上がった。
歓声と拍手・・・というよりは、それらが混ざった轟音と評するのが妥当だろうか。
あれほど精神が参っているはづきでさえ、彼女の姿を見ただけで少し気分が高揚する。
『はいはいー、みんな、落ち着いて落ち着いてー』
との、マイクの声も辛うじて聞こえる程だ。 何度か彼女が『落ち着け』の手振りを繰り返し、ようやく場が収まる。
『えー、みなさん・・・ ただいま!』
彼女がマイクを場内の生徒達に向かって出す。
『おかえりなさーい!』
の合唱が間髪沸き起こる。 その幼稚園のような反応に満足そうに頷いて、壇上のカリスマは話始めた。
「・・・はづき、はづき」
隣に座るハナが、話を熱心に聞くはづきにやや遠慮しがちな声で呼びかけた。
「・・・うん? どうしたのハナちゃん?」
「・・・その・・・」
ハナは全員が一心に刮目しているその人物を恥ずかしそうに目線で指す。 はづきはそれで理解した。
「・・・ああ、うん。 百合内先生の事ね」
「ゆりうち・・・センセイ」
「百合内 桜(ゆりうちさくら)。 先生というか、ここの特別講師をなさってくれてる人。
本職は・・・世界的な、バイオリニストよ」
「へえ・・・」
「『へえ』で片付けるんじゃないわよ」
二人の会話に突然割り込んできたのは、はづきの逆隣に座る圭だった。
はづきや圭も、今はこうして隣同士で座るのがとてつもなく居心地悪く、息苦しかった。
だが整列は出席番号順なので、『菱沼』『藤原』ハ行がそれで終わって『巻機山』となる並びは
はづき達にとって神のいたずらとしか思えない。
そんな異質な空気に我慢できなくなったのか、それとも無知なハナに一言物申したくて仕方なかったのか、
ともかく圭は睨むようにしてはづきの代わりに解説を買って出た。
「百合内先生はね、私たち音楽家・・・ 違う、世界の音楽家が一番尊敬するメチャクチャ凄い人なのよ!
日本人でも、先生の名前を知らない人はいないのよ!
それほど凄くて、私たちとは天と地の差がある人なのよ!!」
圭に声を落とそうという努力は見られたが、結局それは大きくなってしまい周囲の反感を買った。
皆に目で注意され、首をすくめる。 が、言い足りないらしく再び続けた。
「百合内先生は、4年前にパガニーニ、ロン・ディボー、そしてチャイコフスキーの3つの国際コンクールで優勝!
前人未踏の快挙を若干24歳で成し遂げたのよ。
アタシ言葉でこんなに簡単に言ってるけど、本当に凄いことなのよコレは。
いまいち分からないでしょうけど、アナタには」
自分の言葉の語彙の足りなさか、それとも圭の話を聞いてもあまり変化の少ないハナの表情になのか、
ともかく圭はじたばたと足を踏み鳴らしながらハナを睨んだ。
「わ・・・分かります」
ハナはそんな圭の雰囲気で、理解はしているようだ。
「でも凄いのはそれじゃあないのよ!?
先生の一番凄いところは・・・
去年、ウィーンフィルハーモニーの、弦楽四重奏団に日本人ながらも入団したって処なのよ!!」
顔を真っ赤にする圭。 どうやら自分で言葉にしつつ、勝手に興奮したようだった。
はづきも圭の話と共に改めて壇上の百合内バイオリニストの凄さを再確認すると、身も震える思いであるのだ。
「そ、そうなんですか」
「『そうなんですか』で片付けない! ああっ、もう、わかんないかなぁ? あのね、なんてーか・・・」
頭を掻き毟りそうな勢いの圭をフォローして、はづきはハナに、
「言うなれば、百合内先生は『生きた伝説』なのよ」 と言った。
圭は『それだ!』と指を立てる。 何時の間にか、はづきと圭の関係は一時的だが戻っていた。
おそらく当人達は気付いていない。
「ハナちゃん、ウィーンフィルっていうのは・・・
オーストリアっていう音楽的伝統の深い国のオーケストラなんだけど・・・
とにかく、私たち音楽家の中では最高峰ともされる名誉ある団体なの。
しかも、そこは普通私たちのような日本人の入団は、ほぼあり得ないとされていたわ。
オーストリアっていうのは格式と伝統を大事にする国で、ウィーンフィルもほとんどがオーストリア人。
だからいくら百合内先生が国際コンクールを総ナメにした実力があっても、入団は厳しいとされていたの。
でも・・・」
壇上の百合内は、そんなはづき達の評に関係なく真に他愛のないウィーンでの近況を笑い話にして、会場を沸かせていた。
「そんな伝統、固定観念を突き破って、先生は見事にバイオリニスト最栄誉のウィーン弦楽四重奏団の一人になった。
それも自分から強引に奪ったのではなく、楽団に関わるほぼすべての人を納得させて譲られた、っていうの。
これはね、世界的な・・・革命なのよ。 音楽界の。
それぐらい、百合内先生の音楽はもはや『伝説』の域になって世界の注目を浴びているわ」
「・・・本当は、こんな学校の特別講師やってる場合じゃないのよ。
でも・・・先生、ここの卒業生で、『美里が今の私を生んでくれた場所です』って公言するほどだから。
こうやって、たまーに無い時間作って日本に帰ってきて、音楽家の卵とも言えないアタシらの面倒見てくれるの。
そこもまた、凄いところなのよ!」
二人の熱の篭った説明を耳に入れたハナは、それが伝染したような熱っぽい表情で頷いた。
「・・・凄いんですね」
「分かる? 魔女さんにも」
「・・・はい、分かりました。 この学校が、そんな凄い人を生んだ凄い処だって、恥ずかしながら知りませんでした」
圭は椅子から思わずズリ落ちそうになった。
「・・・ま、どうでもいいわ。
所詮・・・アンタには分からない凄さなんでしょうけど。 何でも出来る、アンタには、さ」
何かを思い出したように圭は呟き、はづきも顔を強張らせて押し黙る。
そして集会が終わるまで、もうその3人の間で会話が始まる事は無かった。
そんな生徒の生き神・百合内桜がはづき達の目の前にご降臨なされたのは、4限目であった。
彼女が待ちわびる生徒の待つ音楽室に入ってきて、集会と同じように歓声があがり、
それを同じ調子でなだめるのは一緒だった。
クラス委員の『起立、礼』も当然普段より気合が入る。
「はい、弦楽クラスの二年のみなさん、こんちゃ」
こんちゃー、と合唱するのも一緒だ。 ハナはこの雰囲気がとても暖かくて、5年前の美空小学校を思い出していた。
聞いた話によると、百合内センセイは相当凄い人であるらしい。
今はオーストリア国籍に入っているが、はづき曰く『日本人が世界に誇る日本人のNO・1』だそうである。
にしては、教壇に立つその人は何かしらちっともそのような凄い雰囲気は感じられなく、
彼女の何をも知らないハナにとってはとても気さくで明るそうなお姉さん、という印象なのだ。
覚えている関先生のようにピシッとした身なりはしているものの、
話す言葉は西沢先生のように『センセイ』の厳しそうな部分が何も無い。
きっと、こんな雰囲気を持つ部分も『凄い処』の一つなのだろう、とハナは漠然と感じた。
「さ、コンクールも近いし、私もさっさと終わらせて久しぶりの日本を満喫したい。 早速はじめよっか?」
なんだよそれー、と教室がどっと沸いた。
番号順に隣の教官室に来るように、と言い残し、百合内は出席番号一番の生徒を連れて別室に移った。
「何をするの?」
ハナがバイオリン片手にはづきに聞く。
「うん、一人づつ個別に指導してくれるのよ。 百合内先生に自分の音を聞いてもらえるだけで、凄く名誉なんだから」
はづきは嬉しそうだった。
ハナはそんなはづきを見て、よかった、と心を和ませるのだった。
・・・言葉に出したり、表情や態度で表さないように、ハナは出来るだけ気をつけていた。
はづきが何か凄く落ち込み、悩んでいるのに、自分が気付いている事に。
そしてそれは、間違いなく自分が原因であると悟っている事も・・・。
そうしている中、圭がはづきを呼びに来た。
次ははづきの番なのだ。
ハナに教えていた手を止め、はづきは楽器片手に立ち上がる。
「じゃ、行ってくるね。 ハナちゃん」
ハナは微笑んで頷いた。
「失礼します」
と、はづきが入ると、百合内は『失礼されます』と微笑みながら答える。
本来このような同じ技者内の天上人の前に立つ事は、途方も無い緊張を催すものである。
気の弱いはづきなら尚更だ。
なのだが、百合内のこのような性格や態度は、相手にそれを忘れさせる。
「さ、藤原さん。 一曲ドウゾ」
だから百合内が軽くそう言って頷き促したのに対し、はづきは事も無げに答える事が出来た。
一礼し、もう百合内も聞き飽きたであろう課題曲を奏でる。
つつがなく演奏は終わり、はづきは礼した頭を上げ、神の神託を待った。
「・・・んー、気合が足りないというより・・・」
百合内は何か困ったような顔をして言葉を泳がせる。
この、『気合が無い』という評価が、百合内の最も多い指導語なのである。
たったその一言でほとんど生徒は終わってしまうが、不思議と皆納得する。
これは百合内の実績がそう言葉に格付けされているのか、それとも本当に皆が気合の足りない処に思い当たるのだろうか・・・
謎ではあるが。
はづきも一年の時、二回ほど百合内にこうして指導を受けた事がある。
一回目は『素直じゃない』 2回目は『楽器に演奏させない』 であった。
二回共に『気合が足りない』だった圭に言わせて見れば、これは羨ましい評価であるのだと言う。
未だにはづきはこの二つに対して完全な回答を得たわけではない。
分かるのは、天才の言う事は難しい、という事くらいである。
「そんなに心に思う処を残して演奏しちゃダメよ。
あなたは弾く事より、まずソッチの方を終わらせなさい。 ね?」
はづきはポカンと口を開けてしまった。 一瞬、声を忘れた。
「えっ・・・? せ、先生、あの・・・」
「ああ、時間が無いから質問なら後でっ。 次は・・・真鍋君を呼んでちょうだい」
「・・・真鍋君・・・ですか?」
質問を遮られた百合内の言葉に、更にはづきには別の疑問が覆い被さった。
「ええ。 はやくね」
・・・ハナちゃんは、やっぱり飛ばされるのか・・・。
はづきは少し百合内に対して失望しながら、失礼しますと残して扉を閉めた。
最後の一人が終わり、その生徒と共に百合内も再び音楽室に戻ってくる。
「それじゃー、みんな? 私のアメムチアドバイスに従って、自主練習してちょうだい」
授業の時間はまだ残っている。 自主練習、の言葉に、どこかの生徒が『そんなに日本見物したいですかー』と声をあげる。
先生を含め、全員が笑った。
「・・・あん、いやいや違う違う。 そんな薄情なセンセイじゃないから」
そう言って、百合内は笑顔を教室の隅に向けた。
「えっと、巻機山さん? 巻機山、花さん?」
突然自分の名前を呼ばれ、ハナは思わずビクっと体を硬直させて立ち上がる。
はづきは勿論、全員がその意外な名前の先の彼女に視線を向けた。
「は、はい」
「うん、ああ、なるほど、こりゃ確かに美少女だわ。 ライバル出現、ってカンジ?」
その冗談に、笑うものはあまりいなかった。 逆に半端にいたせいで、少し教室の雰囲気が凍る。
「いろいろ聞いたわよ。 アナタの事。
さっきお願いしてね、アナタのお目付け役さんからもOK貰ったの。
ちょっとこれから、付き合ってくれないかな?」
優しく手招きするセンセイに、ハナは多少ならずとも言葉の意味を図りつつ動揺する。
「え・・・ その・・・」
「ああ、付き合って、って言ってもそんな遠くに連れてくワケじゃないから。
ちょっとそこの、音楽ホールまでよン。 ね?
私にも、聞かせてくれないかなぁ」
はづきは身が凍った。 百合内はそんなはづきの脇を通り過ぎ、ハナの手を取った。
ハナの表情がこれ以上ないくらいに青ざめていくのが分かる。
「そ、そんなに緊張しなくたっていいじゃない? 別にとって食おう、なんて思ってるんじゃないんだから?
じゃあみんな、ちゃんと自習してるのよ! センセイはこれからちょっと、コンサートにいってきますから」
みんなが呆然と見守る中、百合内はハナを引きずる様にして音楽室を出てしまった。
「・・・なに・・・ あれ・・・」
誰かが最初にそう呟いた。
その後、教室はすぐに非難やら怒号やら嘲笑やら、様々な負の感情渦巻くざわめきによって大きく唸る。
はづきは耐えられなくなって、思わず音楽室を飛び出した。
背中に、誰かの声がぶつかる。 はづきは払いのけるように無視した。
(・・・先生・・・!)
はづきは走る。
(ハナちゃんを・・・お願い、ハナちゃんを・・・ これ以上傷つけないで・・・!! 先生・・・!!)
廊下を曲がるところで、はづきは豪快に転倒した。
体をしたたかに打ちつけたハズだが、まるでそれを感じていないかのように起き上がり、
ヨタヨタと2・3歩足をもつれさせながらも、再び走る。
痛みはある。
だが、それを感じないだけ。
胸の内からドキン、ドキンとこみあげてくる鈍痛だけが、いまのはづきに感じられる唯一の感覚だった。