<23>
その一日が明けた。
再び時間は同じ時を巡るかのように、美里音楽大学付属高校を流れる。
はづきと圭の会話は無く、ハナも未だに周囲からは冷たい。
しかし・・・そんな日が今日で終わるだろうという予感は、はづきにはしていた。
一限目は再び全校集会。 そのチャイムが鳴る前に、ハナは黙って席を立った。
それに気を止めたのは、おそらくははづきだけ。 はづきはハナに、視線で言葉を送った。
ハナはそれに答え、ゆっくりだが・・・強く頷き、教室を出る。
ハナが欠けても、教室の色があせる事はなかった。
高等部の全員が、ホールに集まる。
そして、壇上に百合内桜。 あがる大歓声。
それもそのはず。 百合内は、バイオリンを手にしているからだ。
皆の期待は、いやが上にも盛り上がった。 圭などは、すでに高揚している。
時の流れが同じだったのは、この辺までであった。
百合内が促し、その後に続いたのは・・・。
巻機山花。
百合内の登場とは雰囲気がガラリと変わり、歓声などは一つもない。
先までのみんなの反応は失せ、ハナと百合内が同じ壇上に、しかも同等に存在しているのを見て、
誰もが声を失い、そして― ある種の嫌悪感が、場内を浸した。
それは怒りにも見え、そして鬱屈した妬み、僻み、歯噛みする程の憤り・・・。
圭を一目見れば、代表して彼女が答えてくれる。
そんな親友の姿をこれ以上、はづきは直視できなかった。 黙って目を伏せる。
早く、始まってほしい。
そして・・・みんなが分かってほしい。
そう願いつつ、壇上の百合内の言葉を待った。
『みんな、聞いて』
マイクの声が、会場内の異様な雰囲気を割って通る。
『言いたい事は、あるでしょう。 分かるわよ。
私もあなた方と同じ、音楽の道を歩いているものですもの』
百合内の声は、どこか冷たかった。 脇に並べられたハナは、置物のように俯き、生き物に見えない。
『・・・今日は、それを・・・ 私がみなさんを代表して、巻機山さんと話し合いたいと思う』
その言葉に、会場がざわざわと唸った。 ある負の期待に満ちたものだった。
大きすぎて、はづきには分かった。
『みなさんは、聞きなさい。
・・・何か思うところがあれば、参加しても構わない』
ス、とハナが手を上げ、水晶玉を出す。
『さあ、みんな。 目を、閉じて。
そして・・・聞いて。
そして、何かを感じたなら・・・ 行動に』
百合内は、その真剣な声とは裏腹に・・・ 小さな笑みを浮かべ、バイオリンの弓に手をかけた。
ハナが、右手をおろして背後の楽器群に合図を送った。
そして、 それは、唐突に始まった。
突き抜けた。
音が。
いや、風。
いや、違う。
言われた通りに目を瞑っている者、その音に目を見開いてしまった者。
それを耳にした者。
感じた者。
そう。
これは、音。
百合内がバイオリンという楽器を通して、弾ませる。
それに答え、ハナが魔法の業で動かす管弦楽器が、さらに強く求める。
百合内が、押す。
ハナが、振り向く。
見える。
いや、感じる。
これは、音楽。
この旋律。
この調和。
この拍子。
それが、別のものに見える。
音なのに、見えるのだ。
『さあ』
百合内か、ハナか。
どちらであるのかは、この際この音楽に対して大きな問題ではない。
『いっしょに』
気持ちが、引き寄せられる。
心で分かる。
それが、見える。
彼女達は視覚的に、一心に楽器を鳴らしている。
だが、そうは見えない。
手が、
こちらに伸ばした大きな手が、この会場にいるどの人間の目の前に、見えるのだ。
『いっしょに、やりましょう』
はづきはハナの笑顔を見た。
何処に、ではない。
その音に、である。
そう、いっしょにやろう。
いっしょに。
そのいい加減繰り返され尽くしたような旋律は既に体に染み込み、はづきの足はタンタン、と拍子を刻む。
もし、 もし今自分がここにバイオリンを持っていたのなら。
私も参加したい。
一緒に、あの中に入って話したい。
触れ合いたい。
そんな衝動が押さえられなかったろう。
それが最初は足踏みに現れ、そして拍手に。
そしてそれはついに、演奏会では考えられない行動・・・
つまり音が止まない内の、起立しての行動に・・・。
はづきだけではなかった。
見渡せば・・・ この音楽を満たしているのは百合内とハナの楽器だけではなく、
全員の手と、足の生み出す音が旋律と化し。
『何か思うところあれば、参加しても構わない』
その答えが、これのすべてだった。
百合内とハナが演奏を止めても、拍手は鳴り止まずにそのまま続いた。
これは、先ほどの『会話』の拍手ではない。
素直な賞賛の、惜しみない感動を表現した拍手だった。
百合内は深く笑みを浮かべ、昨日の自分たちの出した答えが間違いではなかった事を改めて感じ取り、
そのままマイクを手にした。
『・・・ありがとう。 みんな、よく伝わってくれたみたいで』
声が少し、場を静かにさせる雰囲気を持っている。 会場は徐々に静まりつつあった。
『・・・もう少しで大事なコンクールよね。
その前に、これをみんなにハッキリ伝えられることができて、本当によかった』
百合内はハナに一瞥入れ、そしてもう一度会場を広く見渡す。
『・・・みんなは、『音楽』って何だと思う?』
それは大きく重い問いでもあり、なんてことはない小さな軽いものでもある。
各々自分の胸に問うているようで、しーんとした間がそのまま続いた。
『私の小さい頃の話をしようか。
これは、今まで自分の胸の内にずっと仕舞っていた事』
今だから言える、と百合内は思い出すように顔を伏せ、そして晴れやかに上げた。
『私はね、小さい頃はこれでも恥ずかしがり屋でね。
全然、人に思ったことを言えなかったのね』
少し笑いが起きた。 百合内は突っ込まないように、と恥ずかしそうにその周域へ指を向ける。
『・・・ただ、私はその代わり、このバイオリンが人よりよくできたみたいでね。
小さい頃から、そりゃもう天才だー、だの、神童だー、だのと言われて』
結果、今の百合内があるのだから、それは正当な評価であろう。
『・・・うん・・・。
でね、ある日よ。 内気な私にも、一人だけ仲のいい友達がいてね。
・・・その子と、ケンカしちゃったわけ。
ただ、悲しかったのはおぼえてる。
すごく悲しくて、悲しくて・・・
早く仲直りしたかったのね。 どうしようもなく。
でも、分かるでしょ? 私はうまく喋れない子。
内気で、すぐにビクビクしちゃう子。
『ごめんなさい』を言うのが、すごく怖かったし、勇気がいったし、遠かった。
・・・でね、子供ながらの思いつきで、その眠れない夜に考えたの』
百合内はそうしてバイオリンを眺めながら、目の前に出した。
『・・・これ、よ。 私はこれだけは、自信があった。 唯一の、取り柄だった。
そう、これで、『ごめんなさい』を言えばいいんだ、ってね。
アハハ、本当に、どうして私はそんな事、考えたんだろうね?
具体的な方法は、良く覚えていないのよ。 ただ、一生懸命・・・『ごめんなさいの曲』を考えたわ。
そして次の日、桜少女は唐突にその友達の前に立ちはだかり・・・』
百合内は、そうしてたどたどしい旋律をバイオリンで奏でた。
その、ほんのちょっとの、そして音楽的にも『どうか?』と思われるそれは、
何故かはづきの心にチクっとした痛みと、そしてそれを労わる優しさを覚えさせた。
『コレよ。 コレを・・・弾いたの。
私は黙って、彼女の反応を待った。
彼女は黙って・・・ 私の手を取って、にっこり笑ってくれた。
それがね、本当はどういう意味だったのかは知らないけど、私には『伝わった』って思ったの。 今でもそう。
そして私は、そこで今の私を生んだ。
そう・・・音には』
もう一度、百合内は言葉を溜める。
『・・・音には、ちゃんと心が乗せられるんだ、って』
場内の静けさは変わらない。 だが、何かが開けていくような気は感じられた。
『私はね、そう、信じた。
音楽というのは、人間の心の表現の手段の一つ。
誰からでも教わるでもなく、自分で漠然とそう信じたの。
音楽で表現するのは、音の羅列ではない。
音楽で表現するのは、曲の解釈ではない。
音楽で表現するのは、他人の顔色ではない。
音楽で表現するのは、自分のこころ。
私の、こころ。
私の、音。
音に心が乗るから、それは音楽。
楽しい音楽は、そういう旋律だから楽しいのではない。
音楽を奏でる自分が楽しいから、相手が楽しく聞こえるものなんだ、と』
百合内は、まるで皆の反論を待つかのようにそこで一つの間を置いた。
声も言葉も発する者は、当然いなかった。
『この学校で、みんなは『音楽的知識』や『技術』を、たくさん学んでいると思う。
私もそうだった。
でも、それは・・・一体、最終目標が何だったのかを、思い出してみて。
あなたにとって、音楽って・・・どういうもの?
音楽で、究極的に、自分は、何を、したいのか、っていうのを、思ってみて?
音楽家になりたい?
上手くなりたい?
誉められたい?
みんなに感動してもらいたい?
それを超えた所に、何かあるんじゃあ、ないの?
音楽家・・・いえ、すべての芸術を志す人は、みんな、同じ何かを、忘れてはいけないんじゃないの?』
胸を抉られる思いだ。
はづきは思わず自分を抱きしめた。
だが、それははづきにとっては何処となく『いまさら』な感じはする。
なんというか、昔小学校にはじめて教わった算数を、もう一度丁寧に教わっている感覚である。
懐かしさと、ああ、そうだ、という深い認識感が体を満たした。
『私はね、今までコレを口にして、みんなに伝えた事はなかったわね。
だってこれは・・・ひょっとしたら、私だけが思っていることであって、実際は全然そうじゃないかもしれないから。
妄想に近いものだもの。 証拠が無い。
『音に心が乗る』なんて証拠、まるでないから。
これは、私の哲学であってよかった。
でも、私はそれを証明したかった。
私の音楽・・・いえ、人生が、誤った道を歩いてないか、知りたかった。
多くのコンクールで優勝したり、世界に出たり、がんばったわ。
そしてウィーンフィルに認めてもらえた時、私はようやく少しの確証が持てた。
『私のこころは、通じている』
ってね。
・・・でもね、恥ずかしながら、私・・・。 今、その事で少しもめてて』
百合内は寂しそうに口調を転じた。
『やっぱり、日本人を団員にするのは、かなり政治的に、組織的に無茶があったみたいでね。
そういう配慮が、たくさん団の方に負担がいってて・・・。
私は、全身全霊の音で、皆に認めてもらったのだと思ってた。
だけど、実際は、演奏を聞いても『調和が崩れる』とか『アレは一人で飛躍しすぎだ』とか・・・
色々、あって』
『やっぱり、本当に心が通じているのなら、国境や人種も越えられるでしょ?
でも、そこにそういう問題があるのは、やっぱり何かしら違うんだろう・・・って。
ちょっと、ここ最近はへこんでたのよ。
・・・でもね、ここに来て、私はこの子と会った』
百合内の左手は、ハナを掴んでいた。
『この子は、音楽は素人なの。
楽器は弾けない。 曲もよく知らない。 みんなが常識だと思ってる事は、何一つ知らないわ。
でも、音楽は知ってる。 そして・・・魔法を持ってる。
彼女はなまじセオリーを知らないから、自分の思っただけの音を、魔法で表現できるの。 楽器を通してね。
そしてその通った音は・・・紛れも無く、彼女自身の音。
こころの、カタチなのよ。
昨日ね、彼女に、『春』を演奏してもらった。
その『春』は、みんなが知らない『春』だった。
悲しい、不安で、孤独な『春』。
およそビバルディを知ってるみんなには、想像できないでしょ?
・・・そう、その不安な春の源は・・・彼女自身の、心の叫びだったのよ。
私だけではないわ。 その場にいた他3人の誰もが、彼女の『春』に、それを感じた。
私は、目からウロコが落ちる思いだった。
そう、音楽に、音に、心は、乗る。
それをカタチとして見せてくれたのが、まさにソレだったのだから!』
ハナちゃんは・・・ そう、私達が常識で知っているような、『曲の解釈』や『五線と記号の意味』さえも知らない。
知っているのは曲の並びだけなのだ。
つまり、『ありがとう』という五文字の記号の配列が、感謝の意味を伝える、と知らないのと同じ。
ありがとう、と並べれば感謝だ、と解釈するのでは困る。
ありがとう、とは、自分の感謝の心を表すのに一番良い旋律だから、と、昔の人が閃いたに他ならない。
私達は、それを忘れていたのだ。
言葉・・・いや、音にこもる、音楽の本当の意味。
音楽とは、何であるか、を。
『今もね、私の言う言葉が真実であるか、といえばよくわからない。
でも、私はそれを信じて、今後も頑張ってみようと思う。
みんなが私に習うと言うのなら、私はそれを教えるだけ。
あなたの心を表現するからこそ、五線や楽器がある。
技術や常識も、『そうであるから』ではなく、『あなたがやりやすいように』ある。
私は、そんな音楽こそが、素晴らしいと思う。
心が乗るから、こうやって音楽で会話もできたし、みんなも分かってくれた。
ちゃんと私たちの、『一緒に、仲良くしよう』に、答えてくれた』
百合内は、満足そうに微笑んだ。
『美里の生徒には、そういう音楽を学んでほしい。 そして最後に一つ』
ポン、とハナの肩に手を置く。
『高い高い、山を登っているとするね。
なぜなら、そこから見える風景はこの世で一番美しいとされているから。
そして、いつかはその頂にたどり着く。
そこには、人が既に住んでいた。
その人は、いつもそこからその風景を見ている。
その人にとっては、それが普通なの。
・・・あなたは、自分が今まで重い苦労を背負ってそれを眺めにここまできたからといって、
いつもその風景を簡単に見れているその人を、責められる?』
(百合内先生・・・)
はづきの胸にした手が、熱かった。
『逆に、そこに住んでいる人は、下界から見える景色の素晴らしさを知らない。
それを教えて欲しい、と、彼女は思っているのよ。
・・・そうね、言葉では難しいでしょうから。
巻機山さん、もう一度、聞かせて。
あなたが一番最初に私達に宛てた、あなたのこころのメーッセージを』
コトン、とマイクを置く音が聞こえる。
百合内の話は終わったのだ。
ハナは静かに、一礼する。
水晶玉が淡く光り、すべての楽器が宙に浮いた。
そして・・・。
温かい、音が。
(私だから、だけじゃない)
はづきは目を閉じて、思った。
(これは、あの時・・・みんな、感じていたはずなんだわ)
ルピナスの、子守唄。
ハナが人間界で、初めて愛を教わった時の、歌。
教えて欲しい。
教えられたい。
人間の、素晴らしさ。
そして・・・
魔女と人間が、愛し愛され、なかよく ― できますように。
演奏が止んだ。
今度は・・・ はづきの拍手が遅れる程、満場の拍手がハナを受け入れた。
それはいつまでも、いつまでも・・・
会場を、温かい空気と、温かいこころで、満たしていた。
拍手も『音楽』である。
ハナはその音に乗った心の束に、初めて人前で、涙を見せた。
とても温かい、涙だった。