<31>
白い壁の家並み。 その家の庭に萌える鮮やかな春の緑。 学校への登下校、おんぷはそんな風景の町並みを歩いていく。
今は ビクトリア調の建物がまだ多く連なるこのサンフランシスコ・パシフィックハイツ地区は、ちょっとした高級住宅街である。
日本でも『お金持ちは山の手に住む』のように、ここも小高い丘から町並みを見下ろすようにして開けている場所であった。
夕方。 その白と緑のコントラストに、淡い朱の色がにじむ。
真昼の鮮烈な風景もいいが、おんぷはこの町のこんな幻想的な夕方が好きだった。
似たようなモデルハウスの前を数軒通りすぎ、おんぷは自分の家にたどり着く。
いつもは広く感じる庭が少し狭いのは、大きな車が止まっているせいだろう。
またお客さんか、とおんぷは心の中で呟いた。
「今の公演が済んでもないのにねぇ」
「考えるのに早くはないですよ、ミス・サクヤ。 こちらとしても、次の我が演目にはかなりの予算幅を設けておりまして、
今まで以上に設備・演出・等の環境にも…」
「そーぉ?」
などという会話が、居間の戸口に立っていると聞こえてきた。
「でもワタシ、実は次ハリウッドの方からオファーもあったりするのよねぇ」
音色は落ち着きながらもふわふわとしたこの家のご主人様の口調は、彼女の『職業』の影もバックにあってかイマイチ真意を掴みづらい。
今の台詞にしても、大半の人間がそれを吐いても簡単にジョークと流せるが、
この人の場合はそれが本当の可能性である方が高かったりするからまた困る。
敷島 咲弥(しきしま さくや)、芸名『SAKUYA』。 職業女優。
彼女がこのサンフランシスコでのおんぷの保護者であり、そして…。
「ただいま」
何となく話が滞ったのを見計らって、極めて無個性な声でおんぷはそう言いながら部屋に入った。
「あら、おかえり」
さくやが振り向く。 彼女に相対していた何処かの何屋さんもおんぷに目を向けた。
「おや、ミス・サクヤ。 貴方が実はミセスで、しかもこんな素敵なお嬢さんがいらっしゃったとは知りませんでしたな。
大丈夫、この事は私の胸の内にしまっておきますよ」
「んまぁ、失礼な。 ワタシがこんな大きい子を持つ年に見えるって事?」
「え… 大きい? 失礼ですが、お嬢さんは…」
「これでもハイスクールの学生よ。 シックスティーン」
さくやが意地の悪い笑みを浮かべて、おんぷを手招きする。 おんぷは無表情に、さくやに従った。
「これはこれは。 …いやぁ、東洋人の年齢を当てるのは難しいですな」
「フフ。 おかげでワタシも若く見られて助かるわ。 アメリカはいい国ね」
軽く冗談で会話に一息入れた後、さくやはおんぷの肩に手を置いて言った。
「…まあワタシがお腹を痛めて、と言う訳ではなくて預かり子だけど、ワタシのかわいい娘である事には変わりはないわ。
残念ね、スキャンダラスなネタじゃなくって。
コレは『おんぷ』。
…『多少おてんばで、レディーの要素に欠ける困った娘』だけれども、充分チャーミングでしょう? ワタシに似て。
おんぷ、こちらエリューミィ劇団のブリッジさん。 ワタシをこんど演(や)る『楊貴妃』に是非、ってうるさいの」
さくやの紹介で片手を出した中年入り際の紳士に、おんぷもぶっきらぼうに片手を出しながら言った。
「さくやを楊貴妃? 悪い事は言わない、考え直した方が特!」
「どういう意味よ、おんぷ?」
さくやがジロリとおんぷを睨む。 おんぷはそれをニヤっと攻撃的な笑みで返すと、
「決まってんじゃん、史上ワーストの破天荒な楊貴妃になるからさ!
おまけにさくやもトシ気にしてるから、そうやって話を渋ってるんじゃないのー?」
こらっ、という声と共に繰り出されるさくやの手刀を、おんぷはアハハハと声をあげて笑いながらヒョイっと避ける。
「…もう! いいから、ホラ! お茶でも用意してお客さんの前くらいレディーらしく振舞いなさい!」
「アハハハ、へいへいっと。 私を通してさくやまで普段の人格疑われちゃ、そりゃ困るもんね」
そんな捨て台詞を残してキッチンの方へ消えていくおんぷの様を、さくやは腕組みしながらしかめっ面で見送り、そして…
ゲストはそんな二人の様を呆気に取られて見ていた。
「…んもう、すみませんねえ、お恥ずかしい。 ちょっと自由に育てすぎたみたいで」
さくやの仕事柄、あまり子供の教育にはかまっていられないだろうが、それにしたってあの子がこの『名女優』の娘であるにしては…
放任すぎる、とブリッジは思ったが言わないでおいて、
「いや、活発でいいお嬢さんですな」
と述べておいた。 ホホホホホ、とさくやがいかにも『作りました』というような笑い声をたてていると、
「あー、さくやー、よく考えたら私マトモに紅茶入れた事なかったかもー。 テキトーでいいよね??」
と、キッチンからいかにも面倒くさそうな大声が聞こえてくる。
おほほほほ、とさくやのいかにも『苦笑してます』というような笑い声に、ブリッジは、
「…いや、本当に明朗なお嬢さんですな」
と言い換えるのであった…。
「…君、ちょっといいかな?」
その言葉はとても丁寧な物言いだったが、その中に含まれる雰囲気が悪友に「オイコラ」と呼びつけられるのに似ていた。
だからクリスは思わずビクっと体を縮めて、恐々ながらに声の方を振り向いた。
放課の喧騒が響く校舎の廊下。
自クラスを『今日も』覗いている不審者をついに見かねたのか、冷たい表情でブラウがクリスを見下ろしていた。
「いつもウチのクラスをコソコソ覗いているようだが、何か用なのか?
誰かに用があるなら、ハッキリと呼び出すなり直接声をかけるなりしたらどうだい?
ここはそんなに閉鎖的な場所じゃぁないんだ」
「ご、ごめん」
「謝らなくていい。 君がそういう不審な態度でいると、このような誤解を招くかもしれないから少し忠告しただけだ。
…特に、女子の後をコソコソ着け回したりしていると、悪質なストーキング行為だと見ざるを得ないぞ」
「ぼ、僕は別にそんなつもりじゃないっ」
慌ててクリスが弁明した後、ちょっとした何とも言えない静かな空気が二人の間を過った。
「…やっぱりオンプを。 彼女に何の用だ?」
「だ、誰とも言ってないのにどうして彼女だって分かるんだよ」
「う、うるさいな。 聞いているのは僕だ。 別にオンプが君に着けまわされようが知った事ではないが、一応客観的に見てだな…」
「ブラウ! アンタ今度は誰をいじめてるの?」
唐突に、二人の間にシンディーのよく通る声が割り込んだ。
その声に振り返った二人は、何故かどちらも顔が赤かったようにシンディーには見えた。
と、その内のブラウではない男の子の顔を見て、シンディーは『あーっ』と声をあげる。
「あ、アンタ! いっつもオンプをストーキングしてる怪しい奴!」
シンディーにも指を差されてそう言われ、クリスはますます汗をしたたらせながら更に真っ赤になって否定する。
「ちっ… 違う! 僕はそんな意味でそんな事してるんじゃない!」
「違うじゃないわよ!
オンプはあの通りポヤヤンとしてるから気づいてないかもしれないけど、いつも一緒にいるからアタシには分かるんだって。
アンタいっつもコソコソとオンプを見てるじゃない!」
こうハッキリと自分の行為の有様を指摘されると、さすがに自分でも『何をやってるんだ』と絶望的に恥じ入る。
クリスはそう思ったが、ここでただ『ごめんなさい』と言ってしまっては半ばそれを肯定した事になるので、
なんとか踏みとどまらねばならなかった。
…多少バカな弁明にはなるが。
「た、たしかにオンプが気になって見てたりしたけど… そ、そういう変な意味じゃないんだ」
「そういう倒錯的な愛の形って、本人は認めないのよ。 『自分が変』だって」
「…な、なんで僕まで見るんだ、シンディー」
「別に。 じゃ、なに? オンプとデートしたいならそう言いな。 アタシがセッティングしてあげるから」
「だから何で僕まで見るんだシンディー!」
ブラウの反応にケラケラとシンディーは笑いながら、オンプのように気の弱そうな頼りないボーイに向かってウインクする。
こういう性格の人間を放っておけない気性が、彼女という人間なのだ。
「ま、あいにく今すぐ、とは行かないけどね。 オンプ今日は用事で先に帰ってるから」
だからまた明日にしてね、と続けるはずだったシンディーの台詞は、次のクリスの言葉で喉元辺りにつっかえた。
「…アルバイトしてるんですよ、彼女」
「…え?」
思わず聞き返す。
「彼女、ファーストフードでバイトしてるんです」
…もう一度聞き返しそうになったが、シンディーは止めた。 代わりにブラウと思わず顔を見合わせる。
オンプがアルバイトしてるなんて、そんな事は知らない。
向こうからそんな話はしてこないし、こっちだってオンプのプライベートをそれほど深く知っている訳ではないので、
クリスの言は寝耳に水だった。
親友も知らないそんな事をなんでコイツが、のような胡散臭い視線、そして『やっぱりコイツ…』と今にも口にしそうな怪しい表情。
クリスはそんな二人の誤解が今にも爆発しそうなのが分かっていたので、再び慌てて言を整える。
「…彼女が…じゃないや、アルバイトしてるのは、『おそらく』オンプなんです。
僕はただ、それが知りたいだけなんだ」
シンディーとブラウはもう一度顔を見合わせた。
その表情は疑惑の色、というよりは、ますます訳が分からなくなって、という頭真っ白な色を見せていた。
「で、つまり」
シンディーが、ブラウが、特に珍しいでもないファーストフード店の建物を見上げながら言う。
日は落ちてきていたので、ちょっと派手気味なネオンが目に悪い。
そうなのかどうかは知らないが、シンディー達は少ししかめた顔をしていた。 そして言葉の続きを確認するように口にする。
「ここにオンプっぽい子が働いている、って訳だ」
「…っぽい、じゃなくて本人…とは思うけど」
「じゃオンプが働いてるわけだ」
「…でも本人かどうかちょっと自信無いし…」
さっきからクリスはこういう台詞の繰り返しだった。
『もういい加減『どっちなんだよ!』というような突っ込みをする気力はブラウにもシンディーにも尽きている。
ともかく、そんな話はこのクリスの妄想なのか夢なのか、はたまた現実にオンプでそうなのか、
姉妹がいるのかスーパーそっくりさんなのか…
何はともあれ面白そうな話のネタにはなるので、シンディーはクリスの話のままについて来た。
何かブツブツ言いながら、ブラウも結局ついてきている。
「ま、答えは目の前にあるんだし、とにかく入ってみましょ」
とくにゴクリとした緊張も無く、シンディーを先頭に3人は自動ドアを潜った。
「いらっしゃいませーっ!」
…その声色に、シンディーはいきなり足を掬われる。
探すまでも無く、標的の謎っ娘(なぞっこ)は堂々とカウンターの中央にいて笑顔を輝かせていた。
「…本人、ですよね」
クリスが鑑定者達に、おずおずと尋ねる。
先頭のシンディーは目を丸くしたまま後ろのクリスを振り返り、隣のブラウを見て、そしてまた中央に視線を返す。
そうしただけで、シンディーからは答えが返って来なかった。
「…とりあえず、本人に聞いてみるのが一番だろう」
ブラウがかろうじて冷静さを取り戻したかのように発言しているが、それも何だかな、の行為である。
ヘアースタイルが変わっていて、メガネを外した他は明らかにオンプ・セガワだ。
マンガではないのだから、メガネを外したら別人の顔でした、のような甚だしい変身ではない。
見たままに、オンプなのだ。
が。
答えを求めに、3人は固まってメガネ外しオンプの前に並んだ。
「いらっしゃいませっ! 店内でお食事ですか? テイクアウトですか?」
決まり通りの台詞を、楽しそうにシャキシャキ喋るオンプ。 一瞬空白の時が流れて、シンディーは代表して答えた。
「…オンプだよね?」
これ以上ないくらいに的確な問い。 …というよりは、これの他に何を聞けというのだろうか。
店内かテイクアウトか、の向こうの問いは無視だが。
「うん、オンプだけど」
にこにこの中に『? どうしたの?』という様なニュアンスを込めて、やけにアッサリ答えは返ってきた。
だが、それだけだと求める解としてはまだ不適格なのである。
『オンプという名前の、同名の別人』という可能性を切り離せないからだ。
正直顔が同じで名前も声も同じなら『同一人物』ですっかり解決するのだが、
こんな疑問が平気で頭を過るくらいに「あのオンプ」と「このオンプ」は違いすぎる。
いつも一緒にいるシンディーが真剣にそう考え、メニューそっちのけでこのバカバカしいクエスチョンにピリオドを打つべく
次の問いを切り出そうとしたが、
「シンディーにブラウも、わざわざアタシに会いに来てくれたんだ。 でへ、なんか照れるなぁ~」
と、舌を出して笑うオンプの口から、既に決定的な答えはリボンをつけたプレゼントよろしく贈られてきた。
…それでも、なぜかカウンターに並ぶ3人の頭の中は、サンフランシスコ夏季名物の霧のように、未だスッキリしないのであった…。
「なんだ、じゃあサクヤの話は本当だったのか」
駆けつけ一杯目のビールを空けて、エリューミィ劇団のマネージャー・ブリッジは早くも赤くなりかけた顔を苦笑に歪めさせた。
「はは、悪いね。 抜け駆けだったかい?」
バーのカウンターに、同じようなスーツ姿の男が二人。 どちらもサクヤが活躍する世界の住人である。
「彼女、たしか映画はキライだっていう評判だろう。 よくそれを踏まえて打診したな」
「はは、まあねぇ。 監督の一声だから仕方ないよ。 だからダメ元なわけ。
今度の映画の結構重要な役どころになるから、監督もイメージ合わせを譲らなくてね」
そうギリギリの情報交換を楽しんでいると、後ろからもう一人『ようっ』と声がかかった。 二人も軽く手を上げて応える。
カウンターに3人が並んだ。
「ちょっと遅れた。 ウチの、今日がラスト・ショウだったからねえ。 で、何? サクヤの話をしてただろう」
「はは、声をかける前に聞き耳を立てていたな? コイツめ」
「フフ、君らが僕の悪口を言っていないか確認したんだよ」
「いつも目の前で言っているじゃないか! 俺達は!」
ハッハッハッハ、と陽気な笑いが響く。
「…ああ、そういえばサクヤの家に言った時、何時の間にか娘がいたな」
ブリッジが思い出したように呟いた。
「娘? それは知らなかったな。 従妹なら知っているんだが。 あれだろ、なんか大人しいカンジの子」
「なんだ、僕はどっちも知らないぞ。 僕もサクヤの家に行った時『年の離れた友人』を紹介されたが。
なんか、見た目は少女なんだがやけにセクシーな女性だったよ。 思わずスカウトするところだった」
「なんだ、サクヤの家には何時の間にか随分ジャパニーズガールが集ってきているんだな。
僕が会ったオンプという少女は、きっとその中でボス格に違いない。 なんというか…暴れ馬のような子だった」
ブリッジが笑いながら付け足したその言葉に、両隣の二人は目を丸くして彼の言葉を遮った。
「ちょっと待てよ、ブリッジ。 オンプ? 君が会った少女はオンプという名前なのか?」
「ああ、強烈だったんで忘れないよ。 今日会ったばかりだしね。 どうした?」
「オイオイ、俺が会った大人しいカンジの子も、オンプという名前だったぞ。
大人しいというか、地味で、言っちゃ悪いがこれといった個性もないような子だった。
サクヤ自身も『この子は大人しいだけで、何の取り柄もない子だけど』なんて言ってたくらいだ」
「おいおい、じゃあ俺がスカウトしようとした『オンプ』は誰だ?
彼女も『オンプ』だが、君らの言ってる少女とはぜんぜん違うぞ?
なんだ、俺が聞き間違えたのか?」
3人はそれぞれ何かに化かされたような顔をして、お互い言葉の無いまま相手の意思を確かめていた。
サクヤの家にいた少女。
大人しく、無個性のオンプ。
少女のようだが、大人の色気を備えたセクシーなオンプ。
男の子のようで、ガサツなオンプ。
すべて、同じなのは『ジャパニーズガール・オンプ』という一点のみである。
「…最近の日本では、珍しくない名前なんだろう」
ブリッジが何とは無しにそう言うと、二人も他にいい答えが見つからなかったのでそのまま頷いた。
休んでいたジョッキに手をかけると、新しく宴席に加わった人間の為思い出したようにカチンと乾杯の音を響かせ、
次の話題に移っていった。
「フフフ… あらいけない、もうこんな時間。 これから人と会う約束があるの。
もっとお話していたいけど、オバサンこれにて失礼するわ」
「オバサンなんて、そんな! マテリアさんはまだすっごくキレイです!
私もマテリアさんに教わった事を生かして、早く素敵な女優になりたいです!」
「アハハ… オンプ、女優になりたいんだったら私じゃなくても、お姉さんのサクヤがいるじゃない? 彼女も素晴らしい女優よ」
「姉さんにあまり頼りたくないんですっ」
オンプの頬を膨らましたような声に、マテリアは面白可笑しくなって手を叩き、横のさくやを盗み見る。
彼女は苦笑しながら両手の平を上に向け、肩をあげて見せた。
「見る目がある妹さんね。 サクヤ」
「いいから早くデートに行きなさい!」
「おお怖。 フフ、じゃあね、オンプ。 次の舞台のときはチケット送るわ」
「ありがとうございます! 勉強させてもらいますから!」
立ちあがって猛烈な勢いで深い礼をするオンプを愛しく思いながら、マテリアはオンプの肩をポンと叩いて部屋を出た。
そして彼女の乗った車が出て行くのを、さくやとおんぷは手を振りながら見送る。
…のち、ドアを閉めた。
ふう、とおんぷが一息つきながらさくやを見る。
「・・・さくやさん、『女優に憧れている素直で真っ直ぐな子』はいいけど、『さくやさんの妹』っていう設定はどうなんだろ?」
おんぷの声に、さくやは背を向けて手をヒラヒラさせながら、
「なぁに? 何か文句でも?」
と苦笑しながら立ち去る。 おんぷもクスリと笑うと、キッチンへ向かった。
キッチンで沸かし直したお湯で紅茶をいれ、客がいなくなった居間に二人座る。
「んー、まあ、役どころはいいトコ掴めてたと思うわね。
アナタ既に『女優』っていう仕事についているから『憧れ』の表現はどうかな、とか思ったけど」
「あはは、私がやってたのは『アイドル』です。 女優に憧れを持ってるのは、今もそうです。
私はさくやさんのような女優になりたくって、こうして追っかけてきたんですから」
「このぉ、まだ『役』入ってるでしょう?」
ウフフフフ、と二人は笑って、それぞれのカップに口をつけた。
紅茶を啜っているおんぷを見て、さくやは思う。
この子が目指しているのは、どのくらいの高みなんだろうか。
数年前、突然私の前に現れたこの少女。
『本当の女優になりたい。 私はあなたの中にそれを見て、ずっと憧れてきた』
その言葉をひとつ下げて、日本でのあの大きな影響力や事務所の力も投げ打って彼女はここにやって来た。
そこまでされたら、私も応えない訳にはいかないだろう。
だが…。
彼女は既に、『何か』を知っている。
私の持つ『演技』という理論の根本にある、何か、を。
既にその大切な部分を押さえている彼女に、実際のところ私が口を挟む隙は少ない。
後は新しい計算式を覚えた後の作業のように、それを使った問題を数多くこなすだけだ。
それが経験。 演技はその経験によっていくらでも深みを増す。
「…あ、そうそう。 そういえば…今日、クラスの友達に『春風おんぷ』を見られちゃった」
「春風? …ああ、『ドジだけど憎めない、明るいだけが取り柄』って役」
「…そこまで厳しい事言いましたっけ」
「で? バレたの、『大人しくて自分の意見をハッキリ言えない、勉強のできる』おんぷと同一人物だって」
「…バレたっていうか…」
おんぷは少し考えるような仕草を見せて、
「…うーん、自分からバラしちゃったんだろうなぁ。 ホラ、私ドジだから」
「自分からバラした?」
「うん、自分から。 『来てくれてありがとう』って名前呼んで言っちゃ、やっぱりバレるわよね」
「あったりまえじゃないの」
さくやが笑い、おんぷも恥ずかしそうにそれに習った。
「うん、そうなのよね。 でも…なんていうか、そう言っちゃうのが『春風おんぷ』だから。
…どれみちゃんなら、友達が仕事場に来てくれたらきっと嬉しくなるって思うもの。
実際私、そう思ったから、つい」
テヘッ、と、舌を出しておんぷはもう一度はにかんだ。
…さくやはたまに、そういったおんぷに背筋をゾクリとさせられる。
『実際私、そう思ったから』
役に入り、彼女は毎日の生活を『筋書きのない舞台』の上で演じている。
役になるということは、理想なのは『その人間に完璧になれる』事なのだ。
だが、これは舞台の役者が『役が降りてきた』などと表現するように、そんな生易しい事ではない。
いくら知っている人間、そう例えば身内の人間を演じるとしても、その心の動き方、個の人間の性(さが)を『理屈でそうする』ではなく、
『本能としてそう表現する』という境地は神懸り的なもの、もしくは長年の経験・生活によって身に染み込ませなくてはならないのだ。
そしてさくやが思うにそれは…。
「…おんぷ、そろそろアナタ、何か舞台に出てみない?」
さくやは今さっき浮かんだ少し誉めすぎな考えを仕舞い込み、目の前の少女にそう問い掛ける。
「えっ? いえ…そんな、私なんてまだそんなトコに来てないですって。
さくやさん、言ったじゃないですか。 『演技というのは、人間を知ること』って。
私まだまだ、人間ってわからない。 第一、明日『藤原おんぷ』で今日のことをどう説明しようか不安になってるところなのに」
おんぷは慌てたように両手を胸の前で泳がせ、そしてうーんと一唸りして情けなさそうに微笑む。
「まあ、『瀬川おんぷ』で考えてもダメか。 『藤原おんぷ』になれば、どうにかなるでしょ」
そう言って、さくやに同意を求めるように首を傾げて見せる。
さくやは、この瀬川おんぷのアメリカでの保護者と同時に…
彼女の『女優』としての師匠である。
だがさくやは、そんなおんぷを見て自分がこの子にしてやれる事は『教えること』ではなく、
『見守る事』だけのような気がしていた。