<33>
おんぷの心は、静かな凪のようであった。
不思議だった。
人前で演技する、つまり『観客に対して見せるために』演技するのは、久しぶりである。
しかも、『舞台演技』という演目は始めてだったような気がする。
そしてさくやの前でこうして正式に演技を評価されること、あまつさえその課された『試験内容』が常識を逸していること・・・
非常に、今のおんぷにとってはどうでもよい事だった。
頭に残ってはいたが、その意味を忘れていたかのようでもあった。
・・・だから、不思議だった。
この1年。
いや。
―魔法を使えるようになって、5年。
女優を目指して歩き初めて、5年の今。
異国の地に来て、しばらくプロの舞台を離れて、おんぷは・・・。
(やろう。 私の女優。 見てもらおう)
渡された台本を置き、ピシャリと頬を叩いて立ち上がる。
そして、おんぷはロッカールームのドアを開けた。
ガヤガヤと物見珍し気をふんだんに振りまく劇団員達が、床に座りながら主役の準備を待っている。
その前列に、さくや、ロジャー舞台監督、そしてシンディーとブラウが陣取っていた。
「そろそろ・・・準備が終わる頃ね」
さくやが時計を見つつ、含み笑いを浮かべる。
「10分で・・・。 短くないかい? サクヤ?」
ロジャーは呆れたように、そんなさくやに不安気な声を投げかけて続けた。
「・・・しかも、あんなムチャな要求して・・・。 本当にオンプは見せてくれるのか?
そんな事・・・一体この世の何人の女優がやってのけられると思っているんだ?」
さくやはそんな言葉の後に、絶妙な沈黙の間を取って監督を見つめ返す。
そして、やはりこれも絶妙な微笑を含んで返すのだった。
「・・・私は欲張りなもので。 どうせ見せてくれる、というのならせっかくだし力の限りを見せてもらおうじゃありませんか?」
そんな二人の会話をウズウズと聞いていたシンディーが、我慢しきれなくなったように口を開く。
「す、すみません。 あの、今からオンプ、何をするんですか?」
シンディーの声に、サクヤとロジャーが演技しているかのように同時に振り向く。
「うん、これだよ」
そう言って、ロジャーはシンディーに台本を開いて渡した。 シンディーの隣のブラウも覗き込む。
「ここのね。 短いけど・・・ほら、ここまで。 ここまでの演技を、実際やってもらうわけ」
短いけど、といいつつも、その監督が指し示した個所は4Pに渡る。
台詞も多い。
しかも。
「・・・え、ちょっと待ってよ。 こ、これ、『二人』必要じゃないですか?」
シンディーは目を丸くして舞台のプロたちを睨む。
「ええ。 だから一人、今いないでしょう?」
さくやは事も無げに、さらりと優雅に返答した。 少し、微妙な重さの沈黙がシンディー達を押す。
「・・・え? クリス? え? だって、彼は今トイレにいってるだけですよ?」
「そうね。 つい今さっき、私が彼にお願いしたから、きっと緊張したのね」
さくやの笑みは全く変わらない。 思わず『さすが女優』とブラウは変な所に感心した。
しかし・・・。
シンディー達は勿論気付いていたが、まさか・・・ そうは、考えなかった。
てっきり、いない一人がそんな目的でトイレに立っているとは。
「・・・! あ、あの、クリスが!? これを!? ちょ、ちょっと待てシンディー、台本を見せてみろ!!」
ブラウが慌ててもう一度その台本を確認する。
「まあ、相手役は素人だしなぁ。 台詞は短いし、多くないから多分平気だろう。
・・・普通にやってれば」
ブラウの心配(?)を見透かしたように、ロジャー監督は語尾に意味深な余韻を残して答えた。
さくやがそれに輪をかけ、悪戯っぽいふくみ笑いを乗せる。
そんな時、スタジオの入り口が開いて即席の主役達が一緒に姿を見せた。
「お待たせしました」
特に着替えた訳ではない。
ただ上着を脱いだだけのオンプと、そして何も変わっていないクリスが皆の前にやってきた。
・・・いや、クリスに関して言えば『何も変わってない』とは言い切れない。
その表情は真っ白になっており、微妙に膝が震えている。
誰から見ても『怖気づいている』という感想が返ってくる程に、彼は生まれたてのガゼルの如くおんぷの傍にひっついていた。
「いける?」
さくやがおんぷに、気軽に尋ねる。
「知らないですよ。 もう、全くムチャばっかり言うんだから」
おんぷは少しむくれたような声をしていたが、顔は自然に微笑んでいた。
― この子は、やる気だ。 本気で。
まだおんぷは何も見せていない。
だが、ロジャーには今のやり取りだけで・・・今までの舞台で見てきた経験のすべてで、そんな雰囲気を感じ取った。
「・・・そ、そうです・・・よ、ムチャです・・・」
辛うじてそこに声を入れられたのは、今この場所に立っている者の、おんぷ以外のもう一人。
「ぼ、ぼくは、そんな・・・ だって、何もそんな、だってやったこと・・・ないし」
さっきからクリスは、この言葉をオウムのように繰り返しているばかりである。
真っ白な顔は、そろそろ真っ青になろうかとしていた。
「・・・平気平気。 評価されるのは私なんだから、クリス君。 そんなに緊張しなくていいってば」
おんぷはポンポン、とクリスの肩を叩いてにっこり笑う。 何度目だろう。
「だ、だけどね、オンプ・・・」
「いいから。 さ、もう始めないとこのオバサン、厳しくなるから。 始めよう?」
おんぷは笑って、クリスの手を取る。
「おんぷ、減点1」
さくやは冷やかにそう告げる。
おんぷは舌を出して、そしてシンディーとブラウにウインクすると、クリスを引きずって離れた隅の方に移動した。
シンディーもブラウも、何も声をかけられなかった。
・・・そう。 完全に。
今、自分達が見ている『オンプ』は、学校のオンプとは別人なのだから。
初対面のような空気のカベが、そこにあった。
この稽古場の隅、いわばここは舞台の袖である。
おんぷはクリスを観客達の前から庇うようにそこに立ち、顔だけではなく頭も真っ白になっているだろうクリスを見つめ、囁く。
「ね、クリス君」
「・・・」
おんぷとクリスの背は、ややクリスが高いが大体一緒だ。 二人とも、そんなに高くない。
目線は平行に、おんぷはその線を短くして一言づつ、クリスに染み込ませるように言う。
「大丈夫。 さくやさん達が見るのは、私なんだから。 そんなに怖がらなくても、平気よ。 気楽にいこう? ね?」
「気・・・き、気楽になんか、いけないよ・・・」
「どうして?」
「ど、どうしてって・・・」
クリスは今気付く。
おんぷの顔が、ちょっと暖かい息がすぐにかかるくらいに間近にあるのを。 目が、こんなにすぐ傍にあるのを。
彼女の目の中に、自分が映っているのが確認できるくらいなのを。
クリスの顔の色は、少し元の色を取り戻しかけていた。 若干、赤みが多くなっているかもしれない。
「いい、クリス君。 あなたは、普通にしてればいいから」
「・・・普通??」
「うん。 普通。 これから私は喋ったりして、あなたに問いかけたりするけど・・・
台詞とか、全然気にしなくていいから。 自分が言いたい事、喋って? どう? 分かる?」
「・・・え・・・」
「こんにちは。 私、おんぷ。 ・・・はい」
おんぷはピ、とクリスに指をさす。
「・・・こ、こんにちは・・・」
何かに操られたように、クリスはポツリと言った。
そんな何でもない一言に、おんぷは物凄く嬉しそうに微笑んで、指でOKサインを作る。
「OK。 そう、それでいいの。 それでね。 私は今から、『マルグリット』になるわ。 『マルグリット』。
マリー、でもいいわ。 私は、マリー」
「・・・マリー・・・」
クリスは呆然として、おんぷの言葉を復唱する。 正直、頭に入っているとは思えない。
「はじめまして、私はマリー。 大きな声で。 大きな声で、いきましょう。 私達の幕があがるわ」
おんぷは振り向き、さくやに向かって手を上げる。
『・・・第3幕4場、セントラルパーク。 ・・・スタート!!』
ロジャー監督が大声をあげ、バン、と丸めた台本を叩いた。
おんぷは再びクリスに向き直ると、軽く・・・
クリスの額に、唇で触れる。
そしてクリスの目を見てにこりと笑うと、風のように・・・ライトの真下、舞台の中央に向かって駆け出した。
クリスには、もう何も考える事ができなかった。
舞台が、始まった。 シンディーとブラウは、突然元気よく跳ね出したオンプに目を奪われる。
くるくると回るように、何かに浮かれたように、満面の微笑を浮かべて中央にやってきたオンプは、ピタっと止まると背後を振り向いた。
両足をきちんと揃え、右手を一杯に上げて、そして振る。
「・・・どうしたの? ねえ!」
叫んだ。 思わずシンディーもブラウも、ビクっと肩を震わせる。
・・・いや、これは・・・。
そんな乱暴な口調ではない。 ただ単に、いつもの日常の台詞がそのままボリュームアップしただけの、キレイな会話だ。
これが『声量』という奴か、とブラウは考えていた。
そう、ここは舞台。 今は、オンプの舞台なのだ・・・。
おんぷは手を振りつづける。 そして・・・。 もう一人の役者が、それに引かれたようにゆっくりと、前にやってきた。
二人の距離が、徐々に詰まる。
不意におんぷはクルリ、とクリスに対して背を向けた。
クリスはその動作に突然正気を取り戻したかのようになって、ハっと歩みを止める。
オンプはゆっくり、もう一度クリスに向き直った。
「・・・何も、聞かないの? ・・・さっきの、こと」
少し影の入った、先ほどとはまるで違う雰囲気の声だった。
登場の明るいオンプの表情は、その面影がやや残るくらい程度になっている。
「き・・・聞きたいよ」
クリスが喋った。
「・・・どうして・・・あんなこと・・・」
呆然としたような、クリスの台詞。 それにオンプは突然・・・ 笑い出した。
「どうして、ですって?? そうね、どうして、ですもんね。 あなたはそう思うわよね、『どうして?』って!」
笑い続けるオンプは、観客に背を向ける。
しきりに肩を揺らしていたが、それが徐々に止まった。
しん、と突然空気が重くなった。
ライトは点いている。 だが、何か暗くなったような気がした。
クリスはやや、後ずさっていた。
彼が一番、この空気に気付いていた・・・から。
「私が笑っている意味、わかる?」
オンプの背中が言った。
「私のこの笑いが・・・分かる? 私も驚いてる。 どうして私、今、ここで笑うんだろうって。
そうよね? どうして、よね? ええ、あなたの言葉、正しいわディセンフィーヌ。
気付いたわ。 私も分からない。 どうして私、笑うんだろう?
あはは、どうしてでしょう? どうして・・・」
オンプは背中を向けている。 なのに・・・ブラウには分かる。
オンプの、その、裏にある表情が。
声で、そしてこの空気で分かる。
冷たい、そして何か重い、氷のような、何かが。
うっすらと、自分に汗をかかせるような、そんな・・・表情を・・・。
舞台を見つめるさくやの表情は、口元が笑っていた。
自然に、緩んだ。 心の奥から、何か衝撃のようなモノが押し寄せる。
そんなさくやの顔を見ていたのだろうか、ロジャー監督も震える声をボソリと溢した。
「・・・こんな・・・ まさか、背中でここまで『魅せる』事ができるなんて・・・!」
だが、監督のこぼしたその言葉は、オンプの見せている舞台の感想の、ほんの一部分でしかない。
これは氷山の一角。 驚愕すべき事は、溢れるほどにあるのだ。
たった、ここまでの間に。
そう、たったこれだけの寸劇で。 言葉を失うくらいに・・・。
「・・・ホワイ!!」
緊張を、一瞬にしておんぷの絶叫が切り裂いた。
右手が上がっている。 クリスに向けて、何かを突きつけている。 その手の形は、引き金にかかっていた。
銃だ。
シンディーには、ブラウには・・・。 勿論、他の皆にも、それが『見えた』。
「・・・わ・・・分からない・・・」
クリスが絞りきったような声を出す。 そして、2歩、後ろに下がる。
両手は自然に肩のところまで上がっている。 オンプはおもむろに、急に、意外な間で、クリスに向き直った。
意外な、間。
観客にとっては、である。
さくやにとっては、正に『ここしかない』と思える間。
(・・・やはり、この子はすべてを知っている。 そして表現できる。 断言した甲斐があった・・・)
さくやの、自分の二の腕をぎゅうと握り締める力が、さっきから止まない。 そしてそれはおそらく、おんぷの演技が終わるまで・・・。
「殺したいの」
なげやりな台詞に聞こえた。
だが、その中にホンモノの感情が篭っていた。 少なくともシンディーは、そう本能で捕らえていた。
「私の本当の名前は、マルグリット。 言いたかった。
ずっと、あなたに言いたかったわ、ディセンフィーヌ。 今日のこの日を、ずっと待ってた。
私は、この復讐の日を、ずっと待ってた」
ずり、とおんぷが一歩詰めた。 クリスは石にでもなったかのように、動かなかった。
「憎い」
もう一歩、詰める。
「憎い」
もう、一歩。
「・・・やめてくれ」
クリスが、台詞を挟んだ。
「憎い。 だからこそ、おかしい。
嬉しい。
楽しくもある。
募った思いを、この引き金を、引けるのだから」
「やめてくれ」
「私はあなたにされた事を、忘れてはいない。
あの日、遠い昔にされていた事を、忘れてはいない!」
「・・・ぼくは何も・・・」
「忘れたというの!!?」
「・・・」
「私を愛してる、って言ったわね?」
「・・・」
「あなたは私に、もう一度そんなウソをついている」
「・・・」
「そんなウソを、ついている」
「・・・ウソ・・・じゃない・・・」
「ウソをついている」
「・・・ウソじゃないんだ!! ウソじゃ! ボクは・・・」
クリスは叫んでいた。 何時の間にか、大きな声で。
「だまれ!!!!!」
だが、それも掻き消えた。 オンプの絶叫が、一瞬にしてクリスの声を引き裂く。
オンプのつきつけた右手が、動いた。
クリスがビクリと震えて、その場にへたり込んだ。
・・・だから、全員がそのあるはずのない音を聞いた。
銃声。
『銃が、撃たれたのだ』
と。
・・・。
銃声というショッキングな音を間近で聞いた後、たしかにあるだろう。
こんな、何も発せられないような、ガラスの破片に囲まれたような空気の、間が・・・。
どのくらいの間だったのだろう。 誰もが正確にわからない。 時間を麻痺させられていた。
ふと、おんぷが正面を向く。
全員の表情が、ハっとなった。
彼女は・・・泣いていた。
笑いながら。
泣いていたのだ。
「・・・どうしてでしょう」
その涙が、語る。
「愛していたのに」
右手が、開く。 ドスリと、何かが落ちたような音を聞く。 そう、目の前の、おんぷの世界で。
「憎かったのに・・・。 愛していたのは、どうしてでしょう・・・」
どさり、と己も沈む。 すべてを投げ打ったヒロインが・・・座り込む。
「どうして・・・私は泣いているのでしょう・・・?」
そして、伏した。
この場に立っている者は、ついに誰も・・・いなくなったのだ。
音がすべて死んだように姿を潜め、空気が重く行き場を無くして舞台の上で滞っている。
誰もが、動かなかった。
そして、素直な一つの感情が観客のすべての心にあった。
そしてその関が切れかかった時・・・。
「・・・以上、です」
がばっと上半身を起こし、微笑んだおんぷが止まった時間にスイッチを入れるような声を響かせた。
皆、夢から覚めていた。
だが、一体どうしていいのか分からない様子で各々が顔を見合わせている。
さくやが落ち着いて、ゆっくりとした拍手を鳴らした。
その渇いた音に気付き、全員が・・・慌てて、拍手を鳴らす。
大きな、賞賛の拍手を。
クリスは今も呆然として、その場にへたり込んでいた。
「・・・終わったよ? ご苦労様」
目の前に、手が差し伸べられる。
呆けたように、クリスはその手を伝って手の主の顔を見上げた。
マリーではない。
ライトを浴びた瀬川おんぷが、にっこりして目の前に立っていた。
「・・・えっと、どうでした? がんばったんだけど」
ガヤガヤと、劇団員の皆が今のおんぷの演技について様々な意見を交わしている。
その中、一番の審査委員長さくや、ロジャーの前にクリスを引き連れ、おんぷは照れたように答えを待った。
「・・・あ・・・ いや、なんというか・・・」
ロジャーはおんぷを前にして、前のような態度が消えうせている。
何か恐れ多いようなモノを持って、とりあえずの言葉に詰まっていた。
「オンプ・・・ 凄かった」
こういう時、素人は素直である。 シンディーが本当に素直な表情で、素直な感想を一言にまとめて呟いた。
「あ、凄かった? よかった」
おんぷはアハハ、と笑って頬を掻いた。 少し照れているらしい。
学校では全く見ない仕草なのだが・・・ なぜか、シンディーには『見慣れた』おんぷに思う。
「ごめんね、なんか気の利いた感想無くってさ。 いや、分かる気がする。 アンタが何人もいて、その何人もがホンモノで、
その何人もがオンプ・セガワなんだなって・・・」
「・・・ま、まあ、たしかに・・・ 真に迫った演技とは思ったがね」
ブラウはエヘン、と咳払いしながら口を挟む。
「何よ、ブラウ、アンタまだオンプにケチつけるの? 誰がどう見たって、今のは最高だったじゃないの!?」
「・・・いや、それは分かるさ。 さすがのボクでも、まあ、認めざるを得ない。
だがね、その、これは素人考えなんだが・・・ 一つ、いいかなオンプ。
今の演技、たしかに凄い。
だが・・・その、なんだ。 今のはほとんど、アドリブじゃないか」
ブラウがそう口にすると、傍の劇団員の何人かも『あ、そう。 そうなんだよ』と話の輪の中に入ってきた。
「・・・アドリブ?」
シンディーが首を傾げる。
「・・・そう。 この4場の台本ね・・・。
ホラ、見てくれよ。 だいたいの筋は合ってるだろう、ここまで。
だが、オンプはさっき、こんな台詞を言ったかい?
全然違う。 というか、全くオンプオリジナルの脚本じゃないか?
こういうの、どうなんだ? ちゃんと台本通りにやらないと、マズイんじゃないのかね?」
ブラウが眉をしかめながら、おんぷに尋ねる。
おんぷは目を泳がせ、そしてにっこりと笑うと、
「・・・テヘッ? ばれた?」
と、自分の前髪をいじくりながら誤魔化した。
「・・・アンタ・・・ 笑って誤魔化すのは、どんなオンプになっても変わらないみたいね」
シンディーが呆れたように言う。
「なによ、勝手にやってたの? そりゃマズイでしょ。
クリスはちゃんと台本どおりにやってたのにさ」
ポンポン、と丸めた台本でシンディーはオンプを叩く。
だが、その声に一人、目を丸めた者がいた。
「・・・え? だ、台本通り?」
思わず声をあげる。 シンディーもブラウも、そんなクリスを見た。
「ええ、台本通り。 ま、こんな短い台詞だけど。 でも、アンタも結構真に迫ってたじゃない。
結構見直したわ。 度胸あるのね。 突然指名されたのにさ」
エライエライ、とシンディーはクリスの頭をなでる。
なでながら、シンディーは気付いた。
・・・何か、変だ。
「・・・まてよ・・・」
ブラウも気付いたのだろう、そして、他の劇団員達も。
少し妙な雰囲気が、その場に立ち込めた。
笑っているのは、おんぷだけである。 そして・・・さくやも。
「そう。 そうなのよ」
さくやは静かに、そして湧き上がるこの熱い想いを押さえきれないようにタネを明かす。
「私は、このクリス君には台本を見せてないわ。 だってさっき、突然指名したんですもの」
そうです、とクリスは反射的に頷いた。 皆が、その言葉の意味を図り、考える。
「クリス君は、この台本のセリフ、ちっとも知らないの。
ま、おまけに演技は今日はじめての素人。 なのに、よくやったと思うでしょう?」
じわり、とついに『知っている』劇団員の顔に、冷や汗が浮かんだ。
答えが分かったのだ。
『どういうこと?』なのかが。
「・・・声量は全然足りなかったけど、たしかに彼はなかなかの演技を見せたな」
ロジャー監督が、ようやく感想を口にする。 心なしか、震えていた。
「いや・・・演技とは言わないかな。 きっとアレは、彼の『素』のままなのだろうから」
監督の言葉に、クリスは躊躇い無く頷く。
「サクヤはな、オンプに・・・ 条件を出していたんだよ」
全員が、おんぷを見た。 相変わらず、おんぷは照れ笑いをしている。
「すなわち・・・こうだ。 クリス君には一切、台本を見せない。
だが、クリス君にちゃんと 『台本通りのセリフを言わせて劇を進めてみろ』と・・・ね。
そういう・・・ことなんだ」
クリスもようやく事の真実に気付き、おんぷを見る。
『普通に、喋って』
オンプは言った。
だが、自分にはとてもではないが、こんな舞台で喋れるとは思わなかった。
しかし、オンプのあの一挙一動に、自然に自分のセリフが出た。
普通に、だ。
あの場面で、色々な雰囲気の中で、自分が思ったことを素直に・・・
無意識のウチに口に出していた。
セリフ、なんてものじゃない。 あれは監督の言う通り、素の言葉だった。
そうだったハズだ。
だけど・・・それは。
「・・・ボクは・・・『言わされていた』ってことなんですか・・・?」
クリスの声に、さくやは頷いた。
「・・・たしかにおんぷはアドリブだった。
だけど、それは彼に『そのセリフを言わせる』為に選んだ言葉なのよ。
舞台の流れを変えず、そして見事に役柄の演技もおさえて。
相手のセリフ、そして流れを分かっているって事は、当然自分の本来あるべきセリフも分かっていなければならないわ。
おんぷはそれを、すべて・・・やってのけたのよ。
すべて、よ。
おそらく、舞台役者が必要な才能すべてを、今、ここで。
・・・たった10分の、準備時間だけでね」
誰もが、二度目の驚愕を味わっていた。
未だ、舞台が続いているような、そんな・・・空気を。
「・・・言ったでしょう」
さくやは満足そうに顔をあげる。
「彼女は、天才だ、と」