散りはじめた薄紅の花弁が、音も立てずに縁側に落ちてゆく。はらり、ひらりと。
 蝮は桜が嫌いではない。盛りの季節を今まさに過ぎようとしている花たちを、二回の窓枠にもたれて眺めていた。
 咲き誇ったかと思えばすぐに儚い生を終え、翌年にはまた花を咲かす。そうして限りなく永久近く繰り返す花々を、ヒトには真似出来ぬものとして愛でてい た。そうしたものに惹かれがちだ。
 葉桜になりかけた桜にも独特の風情があるし、今宵花弁を散らしているのは春雨だ。穏やかに降り注ぐ水音にいつまでも耳を澄ませていられるほど、彼女は雨 が好きだった。
(けど、長く見てたら冷えてまうなあ)
 ざわり、一糸纏わぬ身体が震える。日中の陽気に油断していたが、春先のこと。夜も深くなれば気温は急激に落ち込む。風だって絶え間なく吹き続けている。
 火照った肌を鎮めるのには心地よかったが、ほどなく、背後から伸びてくる腕に羽交い締めにされた。
「何しとるんや、風邪引くやろ」
 有無を言わせず掛けられた上衣は鈍色。布地で覆って、
 それだけでは足りないと言わんばかりに力が籠められる。
 振り返りながら、蝮は鬱陶しそうな視線を向けた。
「あんたのせいで熱うなった」
 汗くさ、とわざとらしく袖の部分に鼻を寄せると、そうさせたんは誰や、と切り返された。……半分はお前の仕業やろう、と。
 反撃を諦めて布団に戻る。頭部をぽすんと枕に埋めれば、付いてきた柔造に手のひらを押し当てられた。
 蝮より幾分高い体温が、髪を通してゆっくり伝わってくる。 
 じわじわと熱を与えられているみたいだ。太陽に灼かれるのは好きではないのに、その温もりは不思議と快い。
 山が好きな彼と、雨が好きな彼女は色々な面で対照的で、だからこそ普段はいがみ合ってばかりいるのだけれど。
「もう二時やぞ、蝮。俺はええけどお前明日早番やろ。そもそも何で起き上がった?」
「雨、見たかったんや」
 だからといって裸のままはどうなのだ、と、柔造は蝮の冷えた皮膚を包みこんだ。雛に対する親鳥の如く。
 その表情に浮かぶのは純粋な心配で、面倒見の良い気質が表れている。 
 蝮だって妹たちがあられもない恰好で窓枠に寄り掛かっていたら叱りながら服を着せるだろうが、他に誰も見ないのだから構わないと思う。

   ***

 並んで横たわるのは、ちいさな旅館の一室である。
 かつて虎子の同業者が経営不振に悩まされていたことがあり、苦境を聞いた柔造と蝮が、原因となった悪魔を祓った。といっても大した案件ではなかった。
 二人揃う必要があったのは、何のことはない、旅館に憑いたのが心中相手に逃げられ寂しく死んだ女の霊だったからだ。
 睦まじい男女の泊り客を妬み、害する存在――多くの恋人同士が女の怨念によって別れる羽目になったといい、反面、単身や家族連れには何の影響もなかっ た。
 だから男女で赴く必要があるのだと、虎子が伝えてきた。正式な祓魔依頼ではなく、困った知人を助けて欲しいのだ、と。座主の妻直々に頭を下げられては、 休日返上で出向く気にもなろうというものだ。

 件の怨霊は柔造と蝮が室に入るや否や姿を顕し、すかさず祓った。呆気ないくらい短時間での解決に、主はいたく感激し、以来懇意の宿となっている。
 たまに予約を入れ、仕事が終わってから時間をずらして落ち合う。出張所から電車一本の位置にあるので、休みでない日にも利用することがあった。帰宅しな かったとばれることのない制服は便利だ。
 柔造も蝮も、家族に外泊を咎められる年齢ではない。それでも、見つからぬよう細心の注意を張っていた。
 受付から共にしたのは最初の退治時だけだ。
 従業員は二人の関係を把握しているだろうが、明陀内では犬猿と評判の彼らのこと。柔造が山に籠もり、蝮が小旅行と称して家を空ける間、逢瀬を重ねている などと夢にも思わないだろう。

 そうして重ねて、もうどのくらいになるだろうか。
 艶めいた形容は自分たちには似合わないが、色めいた関わりが横たわっていることは否定できない。
 何度めの夜明かしだろう、まるで情を交わすように肌を合わせるようになってから。……おそらく数えきれない。
 寝息が聞こえると同時に、規則正しい心音が耳に届いた。無意識に柔造の胸元に頬を寄せていたことに気づく。
成長するにつれて疎遠、むしろ犬猿になっていった幼なじみの温もりに、今やすっかり慣れてしまった。
ふとしたきっかけで深く触れ合うこととなった経緯を、蝮は鮮明に憶えている。