価値形態の諸定義はwikipediaを参照のこと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%A1%E5%80%A4%E5%BD%A2%E6%85%8B  価値形態論から導かれた結論は、「貨幣の使用は究極的に等価交換であり、それ自体では利潤をもたらさない」という点に尽きる。価値の基準は商品に投入された「労働」であり、利潤の源泉は労働力として買われ使用される「労働」である。  ここに資本家にとって好都合なる労働市場があるとする。具体的には、労働者は自己の管理する生産手段を喪失しており(生産手段からの「自由」)、生活のために労働の機会を求めており、必要となる分野に適宜雇用される(資本からの「自由」)という状況である。労働市場において、資本家は労働力を買い取る代金として、労働力の再生産に要する価値、要するに生活費相当の生産物価値の譲渡を約束し、生産手段を委ねる(これをマルクスは労働者による賃金前貸し、即ちそれ自体が資本主義の要件である収奪の一形態だと示唆している)。ただしこれ自体は完璧に等価な取引であるという。  さて、価値形態の議論によって明らかなように、何人も平等な取引から利益を得ることはできない。マルクスは使用価値と価値を峻別するからである(ここでは単に「価値」と言うより、資産価値、額面総額等に読み替えると分かりやすい。本来貨幣は等価交換の便宜を図る道具に過ぎない、という理論/tkd)。一方では、資本とは貨幣から貨幣へと移り変わることで自己増殖をなす富のことである。貨幣退蔵は富ではあるが資本ではない(この辺の定義は読み込んでいないのであやふやで危険/tkd)。ここで、資本家の買いつけた労働力の特性が発揮される。即ち、労働力の買取に要する可変資本(つまり人件費)は基準にそって一定であるのに、その使用価値(労働成果のこと)は不定ということである。要するにこき使って儲ければ良いのである。これを労働密度とか労働日とかで色々説明している。そうして労働者が物価を押し下げると人件費も切り詰められ、失業者の圧力が就労者の賃金を引き下げ、生活程度は加速度的に低まり、云々でスパイラルする。その一方では設備投資が増大することで、工場を拡張するより就業時間を延ばすこと・一刻も早く設備を使い果たすことが経済的となり、より少人数の労働者で事足りるようになると、救貧院によって相対的な過剰労働人口が確保されるようになり、ますます資本主義は拡大していくらしい。  ちなみに土地を、ということはつまり自活の手段をもった者は労働者たりえないので、農村の徹底的な破壊が資本主義の基本となる。積極例がイギリスの囲い込みであり、消極例が処女地豊富なアメリカの初期移民社会における資本主義の未発達である。  更に工場法の存在が(=就労時間制限が、ということだが)ますます労働を過密化させ、搾取も進化していくのであった...   おしまい