那覇出張所 1926(大正15)年5月5日に沖縄県那覇市郊外に片倉普及団那覇出張所を開設する。那覇出張所は、1938(昭和13)年11月12日に沖縄蚕種製造所として改称・独立する。沖縄蚕種製造所とは別に、片倉蚕業研究所所轄の沖縄出張所(沖縄県島尻郡真和志村安里 217の1)が同地に所在することから、後者では原蚕種製造と蚕品種・蚕児生理に関する試験研究を行っていたのであろう。 1926(大正15)年11月8日開催の片倉取締役会において、「沖縄県蚕種製造試験場」設置に関する案件を審議する。この内容は、試験場(75坪)新築費7430円、設備費963円であり、「桑園3千坪ヲ乾燥場敷地内ニ設置シ初年春蚕種千枚夏秋蚕二千枚製造予定」であった。 既に片倉鳥栖製糸所は、沖縄に将来の製糸工場建設構想の下に那覇市郊外に1万坪余の土地を購入し、一先ず乾燥場を設けて原料繭蒐集にあたっており、この乾燥場敷地内に片倉普及団那覇出張所の試験研究施設と原蚕種製造用に桑園3千坪の設置を計画したのであろう。なお、片倉普及団は、1927(昭和2)年2月6日に那覇出張所において「新品種造成の為…品種試験ヲ行フベク」、社員(向山卯登磨)と雇員(本木季人)に蚕種20余種を持参・出張を命じており、また同月15日には、片倉愛知製糸所社員(富岡秀美)持参の「河田系ノ原々種支欧二種各五蛾宛」を直ちに那覇出張所に送付し、成績調査を行うこととした。さらには1929(昭和4)年1月11日に、片倉普及団から那覇出張所において新品種製造のため、社員・向山卯登磨外10名が出発している 。1929(昭和4)年7月19日に片倉鳥栖製糸所管轄の那覇出張所は、片倉普及団に移管となる。この移管背景には、沖縄産繭が「一般に飼育技術幼稚にして産繭額も僅少」である一方で、「普及団派遣の原蚕飼育の大量試験成績は、各期共大成功を収め将来を嘱望された」ことにあった。前述の鳥栖製糸所管轄の那覇出張所の片倉普及団移管日前日の7月18日開催の、片倉取締役会において、鳥栖製糸所から申請の同出張所買入繭を片倉製糸の「信州ノ賃挽工場原料トシテハ如何」という提案は退けられ、結局沖縄=那覇出張所は片倉普及団直轄とすることに決断が下されていた。鳥栖製糸所は、沖縄稚蚕共同飼育所設置資金として国頭郡本部村稚蚕共同飼育所長・金城誠真へ3500円の貸付を片倉本社に申請し、1926(大正15)年11月8日開催の片倉取締役会において審議されていることから、鳥栖製糸所による沖縄産繭の確保と品質向上を図る施策が各種実行されていたことであろう。しかし、十分な効果が得られず、産繭地及び製糸工場建設地としては、沖縄からの鳥栖製糸所の撤退が最終的に決定をみるに至るのであった。沖縄は、「早場養蚕地として特殊の気候を利用し、且つ微粒子病少なく蠁蛆病殆んど絶無なる為、原蚕種の増殖に普通蚕種の製造に 」蚕種製造者の同県進出が片倉製糸以外にも遂年増加していったことが指摘されている。 斯くして、鳥栖製糸所からの移管は、片倉普及団那覇出張所の蚕種製造・改良体制が本格的に確立する契機となろう。1927(昭和2)年11月28日と12月9日各開催の片倉取締役会において、那覇市内の元教会所を蚕種製造建物として買入(価格4300円見当)の案件について審議しており、内容は敷地1800坪、建物90坪、石垣180間、外に天水溜設備と建物1棟を含むものであった。この審議結果は明らかではないが、結局製糸工場建設構想を断念し、片倉鳥栖製糸所所管の那覇出張所を片倉普及団が引継ぐことで蚕種製造建物については決着をみたのであろう。その後、1930(昭和6)年9月28日と1934(昭和9)年12月28日に、片倉普及団那覇出張所の増改築工事(仮見積約4000 円)及び沖縄試験蚕室新設の案件が片倉取締役会において審議されている。この試験蚕室は、木造瓦葺2階建地下室付215坪8(代金9735円)であり、新設理由は「配布蚕種ノ安全ヲ期スルタメ蚕種配布前予知調査施行上気候用桑等ノ諸方面ヨリ考察シ沖縄ヲ最適地ト認メタルモ同所ハ現在ノ事業ニテモ狭隘且ツ不完全ニ付新ニ二階建ノ試験蚕室ヲ設ケタシ」というものであった。この2案件の前者に関しては審議結果は不明であるが、後者に関しては承認されている。前述の如く、沖縄蚕種製造所として独立した翌年9月18日開催の片倉取締役会において、沖縄試験蚕室増築工事(代金19450円)案件が審議・可決されている 。この内容は、試験蚕室102坪5(梁間5間×桁行20.5間)、一部地下室付2階建木造瓦葺付属便所並に渡廊下共総延坪231坪75であった。この試験蚕室の増築理由は、「原蚕種国家管理法ノ実施ニ伴ヒ現在ノ試験蚕室ニ於テ原蚕種ノ蚕児ノ飼育ト原蚕種ノ製造トヲ禁止セラレ且将来新品種ヲ急速確実ニ増殖スル為メニハ現設備ニテハ狭隘ナルヲ以テ現蚕室ノ南側ニ一棟ヲ増設シタシ」というものであった。原蚕種国家管理法の施行に伴う片倉製糸の新たな蚕業政策として、一層の新蚕品種の開発・増産の必要から現有設備では不十分となっていたのである。将来を見据えた設備投資の実行である。1930年代に入り、片倉普及団那覇出張所の蚕種製造設備の拡充が進んでいたことが判明する。 1933(昭和8)年7月18日開催の片倉取締役会では、沖縄蚕種製造に関する案件として「高点格生糸ノ原料ニ充ツルタメ満月豊白種三万枚ヲ明早春沖縄ニテ採種スルコト」について審議される 。片倉製糸開発の優良蚕品種・満月、豊白の飼育製造を片倉普及団那覇出張所において行い、高級糸原料に充てる提案であったが、「更ニ調査ノ上ニ提案スル事」となった。1931(昭和6)年に沖縄において、片倉製糸が原蚕種(春蚕種)の品種として、豊白、豊黄、瑞祥、大安が製造されており 、新たに交雑種(満月×豊白)の製造が今回提案されていたことになる。