
唾棄すべきもの
今回は少々特殊です。テーマは ・・・ まぁ、御覧の通りのものでして ・・・。
ストーリーと言える程のものは無く、小説とも呼べないかも知れません。
わたしの考えを反映させる形で、天蓬と捲簾に会話をさせているだけです。
・・・ という訳で、注意書きを載せておきます。
御注意 :
単なる馬鹿話です。
何事も冗談として受け流せる、おっとなぁ〜〜!な女性のみ、
先にお進み下さい。
( よっしゃ〜〜!、こう書いといたら、後の事は、それが殺人の勧めやろと
何やろと、天下御免の御意見無用ちゅうもんやろ!!・・・ 多分! )
↓ ↓ ↓
― 何だよ、ちょっと元気が無いぞ?―
夕食を届けに来て、何時もと同じように窓辺で煙草を吹かしている天蓬を
呼び寄せた捲簾は、ふとそう思った。
何時もと同じに机を放棄し、窓際の書棚に凭れて足を投げてへたり込んで
おり、取り立てて変わった点があった訳でも無いのだが、入って来た捲簾
を見返した目が何処と無く寂しげであった。
「 どうかしたのか?」
「 いえ ・・・。」
呼ばれて立ち上がり、洋服の裾をはたきながらソファに戻って来た天蓬は
穏やかに微笑んで見せたが、やはり何かが違っていた。
見張るように見詰める視線に促され、黙って夕食に手を付け始めたものの
食は進まず、直ぐに止めてしまうと、捲簾が一緒に持って来たコーヒーを
手に取った。
しかし、そのコーヒーすら余り欲しくもなかった様子で、ただカップを両手で
持って、考えごとを始めてしまった。
不審気にじろじろ眺めていると、その視線が気になったのだろう、天蓬の方
から問い掛けてきた。
「 何故なんです?」
既にコーヒーを諦めて、再び煙草に火を点けている。
「 どうして何時もボクを気遣っているんですか。」
相も変わらずの冷淡過ぎる言い草に些かむっとしたが、つまり、この言い
方に一々腹を立てていたのでは、天蓬の相手は務まらないということなの
だろう。
捲簾は諦めて自分の煙草を取り出して咥え、火を点けた。
「 お前ってさ、俺が惚れてるとか言っていても、丸っきり信じてない訳?」
「 はい ・・・?」 という何時もの肯定形の語尾上げ。
「 信じていますけど?だって、貴方のは表現が派手だし、周囲にまで態々
知らせるし、それにまぁ ・・・ 実際の御要望もある訳ですから。」
「 お前なぁ ・・・。」
抗議し掛けて、途中で何と無く嫌な予感がした。
「 お前、最近何か悪い噂でも耳にしたとか、誰かにおかしなことを吹き込ま
れでもしたのか?」
「 いえ、ただ ・・・。素朴な疑問という奴ですよ。」 ふうと煙を吐き出しながら
そう言う。
「 もう手に入れたんだから、親切にする必要も無いのじゃないかな ・・・ と。」
捲簾はその言葉に驚いて、まじまじと相手の顔を見詰めた。
「 俺の方こそ不思議で堪らん。お前自身が人を気遣う性質なのに、どうし
て、人がやると疑うんだ。」
「 ボク、貴方の食事の世話をしたりしませんよ?」
「 当たり前だ。自分の分も出来ない癖に。・・・ だが、他の事で庇うだろ?」
「 捲簾を?ボクがですか?・・・ 何もした覚えはありませんが?」
確かに、天蓬は態(わざ)とに何かして見せ付けるというタイプではない。
戦略の一部になら使うかも知れないが、日常生活でスタンドプレイはしそう
にない男ではある。
それでも ・・・ と、改めて考えてみると、天蓬は人の心情は良く察する方で
あり、捲簾に対してもあれこれ気遣っていてくれたことが多かった。
殊に、自身が捲簾を傷付けたと感じた時の天蓬は、形振り構わずそれを
修正し、人目も憚らずに詫びて来た。
その素直さは子供の様に無垢で、捲簾が、最初に惹かれた容姿などどう
でもよくなり、天蓬という存在そのものを認識し出した切っ掛けにもなった。
ただし ・・・ とことん無自覚なんだ、こいつの場合!
「 お前は誰にでも優しいと思うんだが、何故他人から優しくされるのを嫌が
るのかが、イマイチ分からん。それに ・・・。」
捲簾はそこで少々躊躇った。
「 敖潤にだけは特別甘えて見せるが、もしそれが関係が無いことに対する
信頼感なのなら、俺は ・・・。」
「 関係を解消したいと?」 天蓬が引き取った。
「 魅力的だが、そのことで内心怨まれているのなら、お前の友人である事
を優先したいとは思う。」
「 怨むだなんて ・・・。ボクだって気に入っていますよ?ただ ・・・。」
天蓬までが口篭ってしまった。
「 ただ ・・・?」
「 やはり、優しくされるのは苦手です。世間一般がそうでない以上、貴方
だって、何時か自分だけがそんな風にしているのが、馬鹿馬鹿しくなるで
しょうし ・・・。その時こそ、貴方がボクを怨むのではないかと ・・・。」
「 はん!何だそりゃ ・・・。」
「 だから ・・・。自分だけがそうだったと思えば、損をしているという気になる
でしょう?」
「 お前、世間一般がどういう好みだと思っているんだ?」
「 良くは知りませんが、優しかったりはしないでしょう?」
「 お前は、野良犬育ちが野良犬の群れに居た俺とは違って、付け込まれ易
い条件の中で元の身分で居たから、辛い思いをさせられることが多かった
んだよ。その容貌じゃ特にな。しかし、もう忘れた方が良いと言ったし、お前
もそうすると誓ってくれたろうに。」
天蓬は煙草を消し、俯いてしまった。
「 そうでしたよね。」
結局最初に不審に思った元気の無さだけがそのまま残った。
「 嫌な夢でも見て、昔のことでも思い出したのか?」
「 昔の?・・・ いや、昔の事だったら良いんですけれどね。」
捲簾は眉を顰めた。
「 昔のじゃないって、そりゃ ・・・。」
今何かあるというのか、と言外に咎める語気の強さに、天蓬は気まずそう
に笑った。
「 今も何もありません。ただね、世の中、良い方には向かっていないと思う
んです。それが寂しいな ・・・ って。」
「 つまりその ・・・。他所で起きたことへの同情ってことか?」
「 ・・・ ですかね。」
「 何にでも同情して、何にでも共振して ・・・。良い加減にしろ。」
捲簾は天蓬の腕を持って自分の方に引き寄せた。
「 どうせ、何か良からぬものを見たんだろ。」
天蓬が渋々頷いた。
捲簾は天蓬が気を滅入らせたという原因を自分も見てみたいと思った。
天蓬の場合、怒るぞ、といった様子で怒って見せる時とは違って、強い憤り
を感じた際には寧ろ微笑んで見せることは、これまでの短くはない付き合い
で承知している。
しかも、天蓬の憤りや不安、哀しみは天蓬自身に纏わるものではないこと
が多い。常にもっと根源的な歪みに向けられていた。
それだけに、受け流したりも出来ず、天蓬はただ独りで耐えるしかなくて、
その敏感過ぎる感性を美しくも痛々しいと感じ、危ぶんでも来た。
だから、知りたい。今度は何が天蓬を苦しめているのかを。
「 俺も見てみたいんだが。」
捲簾がそう切り出すと、天蓬はまたかという顔をした。
「 そんな ・・・ 子供みたいなものだし ・・・。恥ずかしいからもういいです。」
「 子供用なのか?」
「 下界から興味本位に持ち帰ったのですが、子供とか学生の若い人たち
が作っているものだと知って、余計に気が滅入ったんです。もう子供と言え
ども純真なんかではない時代なのかな ・・・ と。」
言っているうちに思い出してしまったようで、天蓬は睫を煙らせ寂しそうな
表情を見せた。
「 笑わないから見せろよ。」
「 笑いますよ、普通。真面目じゃないと作った本人も宣言しているんだし。」
しかし自分で、もう良いと言い、真面目では無いと言っておきながら決して
笑うことの出来ない眼差しが気に掛かって仕方が無い。
「 おい!」 再度強く促して、どうしてもというと、天蓬はテーブルの下を指差
した。
周囲にも乱雑に積み上げられた書籍を掻き分けるようにして、手を突っ込ん
で引っ張り出してみると、小冊子の様なものが十数冊出てきた。
厚みこそ無いが、表紙には中々洒落た絵が付けられており、ある程度の
見栄えは保たれている。
「 同人誌というものですが、昔の文士たちのあの同人誌とは違います。
大半、字も書けない若い女性がやっているんです。」
「 漢字教育の水準低下を嘆いているのか?」
「 な、まさか。他人の水準低下なんて知ったことじゃないですよ。」
「 だろーなー。」
捲簾はその同人誌とやらの一冊を手に取り、ページをパラパラと捲ってみ
た。
最初に幾つかの注意書きがあり、同性愛を扱ったものだという注意喚起が
されていたが、通常の注意書きとは違い、何処と無く居丈高である。
「 男同士の性愛だって言ってるぜ?」
「 大分以前からそういうのが受けてはいたんですが、マジにゲイ文学って
いう訳でも無かったんです。」
天蓬が言うには、最近特に若い女性を中心に男性同士の性愛を描く小説・
漫画が出回っているのだが、それらは従来のゲイ作品とは大分趣きを異に
しているらしい。
どうやら、本当にゲイ社会に興味を示したというものではなく、単に社会的
な立場や因習の点で負い目の無い男性を相手役にすることで、より自由な
恋愛の空想をして楽しんでいるようにも見えた。
実際、ほのぼのした作品が多くて、天蓬も当初は気に入っていたという。
それが徐々におかしくなって、表現が過激になり、性愛を描く羞恥の念が
薄らいで来たというよりは、暴力的な性愛ばかりが好んで描かれるように
なっていった。
そして、天蓬が最後に久し振りに見掛けたそれらに興味を持って持ち帰って
みたら、最早、話は如何に不本意な相手を陵辱するかを競っているとしか
思えぬ程のものに変貌を遂げていたのだ、と打ち明けられた。
ふーん、天蓬は下界に興味があるからなぁ。しかも、普段の仕事が仕事
だけに、休憩を取るとなると、こういった下世話なものから童話・漫画にまで
手を出す。・・・ そんな事をぼんやりと考えながら解説を聞き、作品の最初
のページを見て驚いた。
「 おいおい、いきなりヤリ始めんのかよ?」
暫く見ただけでも、直接的で生々しい表現が多いと眉を潜めたが、もう少し
読んでみると、生々しいどころで踏み止まってはいないと知れた。
そもそもその二人の男性の間に合意が無かった。それどころか、受け側の
男性がかなり深刻に拒否し続ける様が描かれている。
「 なんてぇか、これは ・・・。人型以外の妖怪同士とか、いっそ畜生の盛り
合いだな。俺の知る限り、タズマニアンデビルってのが、これに近いぞ?」
捲簾は感心しながら、もう少し先を見ようとした。
こういった情交を描き出しておいて、その後どういう展開をさせたいのかと
気になったからである。
「 何処まで読んでも、延々それですよ?今貴方が手に取っているものは
全部同じ作者の作品ですが、彼女、そういう風にしか書かないんです。」
天蓬が捲簾の動作から目的を察して声を掛けた。
「 延々それですよって、お前 ・・・。じゃ、話の展開は?」
しかし、天蓬はゆっくりと首を横に振った。
「 ありません。ずうっと、そうやってどんどん惨い犯され方をされてゆき、その
犯されている男の身体が蕩けてぐずぐずになる ・・・ とか言うところで終わ
るんですが、その時その男が快感を覚えるのだそうです。で、めでたし、
めでたし。中には強姦され続けている場面で絶望的に終わるものも有りま
すが、それ以上に話が展開するのどうのというものは、彼女は書きたがり
ません。」
天蓬も最初それを知った時、まさかと思ったらしい。幾ら何でも全部という
訳でも無かろうと、ついつい他の冊子にも読み進んでしまった。
その結果得たものが今の絶望感という次第であった。
「 快感を覚えて、めでたしめでたし ・・・?」 捲簾は呆れ顔を返した。
「 いや、そりゃ、男だからさ、前立腺を刺激されりゃ、反応くらいあるだろうさ。
でも、それが陵辱の果てなら、ちっともめでたかねえだろ、それ?
それに、前立腺の刺激に反応したからといって男性を好む者だとも限らん。
受け容れていないどころか、同性に興味の無い人物かも知れんぞ?」
「 ボクに言われても ・・・。」
「 それに、蕩けるって何が?気分じゃなく身体が?お前、蕩けた事あったっ
け?」
「 ボクはゼラチンで出来ている訳じゃありません。」
「 だよなぁ ・・・?」 そうは言ったものの、横で眺めている天蓬の不機嫌は
徐々に度合いを増していた。最初浮かべていた無理矢理の作り笑いさえ
今は無く、澄んだ碧の瞳が憂いを帯びて暗い翳を湛えている。
「 あのさ ・・・。」 捲簾は冊子を畳むとそれを振って見せた。
「 暫く貸しといてくれる?何だか思っていた以上に陰惨なものらしいし、この
際、ちゃんと通読してみたいんだ。」
天蓬が怪訝そうな顔をしたが一応は頷いたので、捲簾はそこにあった冊子
を抱えやすいように向きを揃えて集めた。
「 陰惨と分かったのに読むんですか?」
「 うん。お前ってほら、傷付き易いから、俺にどうしようもなくたって、一応
何を考えたか位のことは知っておきたいんだ。」
天蓬はそれを聞くと溜息を吐いた。やはり、構われるのが苦手であるらしい。
「 物好きですねぇ ・・・。どんだけ暇なんです。」
「 持ち帰った張本人に言われたかねえ!」
「 だって、貴方は自分の興味でそうしようとしているんじゃないでしょう?」
「 るせえよ。そんなことより、それ ・・・。」 テーブルに置かれた夕食の盆を
指差す。
「 続きを食っておけ。それが軍人の食事の量かよ?」
「 小姑 ・・・。」 天蓬が小さく囁いた。
「 後で見に来るからな。もし残っていたら ・・・。」
「 下の口から食わせてやろうか ・・・ なんて、良くそういう本には出てきま
す。」
天蓬が自棄気味に冊子の口真似をして見せた。
「 俺には生憎そんな趣味は無いが、次回の出動からお前を外す権限は
お前自身によって譲られているぞ?発動してやろうか?」
捲簾は天蓬を睨み付けるとそのまま部屋を出て行った。
夜が更けてからもう一度捲簾が現れた時、天蓬は口直しにと別の書籍を
開いていたが、気は晴れておらず、陰鬱な気分のまま黙って活字を追って
いた。
「 暗号論ねえ ・・・?」 身体を折り曲げるようにして天蓬が目を落としている
書籍の背を覗き込む。
「 お前、今、人間の感情に触れたくないって気分なんじゃないの?」
「 何にも考えずに読めますからね。」
「 夕食は丸々残してるし。明日、出動命令が出ても見送りだな。本来の
軍師に戻って戦略に徹してろ。敖潤閣下も真面目になったお前を御覧に
なれば、お喜びだろう。」
意地悪くそう言ってやると、天蓬が読んでいた本をバタンと閉じて顔を上げ
た。
「 どうして、そう意地の悪い言い方をするんです。」
「 食の細いのは不利だからだ。分からんのか。」
天蓬はただ黙って煙草に火を点けた。
「 さっきの奴、読んだよ。」
そう声を掛けると天蓬が頷く。
「 天蓬 ・・・ 俺が思うにあれは ・・・ あれしか書けないんだろうよ。」
「 あれしかって ・・・。」
「 誤字も多いなんてもんじゃない。ワープロ機能に任せて書いたもので、
音がそこそこ合っている程度。慣用句・諺の類は半可通。ちょっと気取った
表現をしようとすれば、通常そんな場面で使うのじゃないという用語を平気
で使うところを見ても、本来の語彙は少ないのだろう。だから、そんなにま
でして小難しく書いた割には、文章全体は幼稚で、文頭と後半の呼応さえ
覚束無い。・・・ 要するにこれまで碌に本を読んだことなど無い奴が書いて
いるということさ。だから、他の事が表現出来なくて、ああいうのを書くしか
ないのだろう。」
しかし、天蓬は頭を振った。
「 それはそうでしょう。もう少しまともにものを考えられる人間なら、最初から
最後まで盛りの付きっ放しなんて話は書かないでしょうから。」
「 だったら ・・・。」
「 違うんです。別にあの人だけが嫌だとか、あの話の人物が今本当に何処
かに居て苦しんでいると思って悩んでいる訳ではありません。
当てられたのは、底無しのあの悪意です。」
「 悪意 ・・・?」 思わず繰り返すと、天蓬はふうっと煙を吐き出して、煙の
行き先を見上げるような仕草をした。
「 一昔前にね、丁度PCゲームの出始めの頃に、男性から女性限定の強姦
ものが結構流行った時期があったんです。」
時期的には丁度、映像の収録機器が家庭用として普及し出した頃であった
と天蓬は言う。つまり、ビデオ・レコーダーの普及時期とほぼ同時期だ。
そのころその両方で、男性が嫌がる女性を強姦するというテーマが流行り
出した。
強姦が強姦である点、つまり女性側にその気が無い点が態々最初に紹介
されていたりして、そのセックスが合意でないことを強調した上で、強姦シー
ンとなる。ところがゲームの場合、途中何か 『 正解 』 として設定してある
動作を行うと、女性が快感を感じ、そこで 『 和姦成立 』 となって、クス球が
割れたりして、『 上がり 』 になるものまで現れた。
ビデオもこの路線を追い掛け、PC・ビデオ機器とも実際的にはそれらの娯
楽が引き金になって家庭進出を果たしたとも言える。
ところが、ことはゲームやポルノの世界に止(とど)まらなかった。
その後、陰惨な殺人事件が増え、強姦殺人自体はどの時代にも有ったに
せよ、そこに昔とは決定的に違った風潮が現れ始めた。
つまり、被害者を 『 一発やってもらったのだから、割りは合うはずだ。』 と
罵り、寧ろ加害者に同情する意見が新聞やネット上を飛び交うようになった
というのだ。
何人もの女性が強姦殺人の犠牲になり、その度、一部の新聞やネットの上
に如何にその被害女性が満足して死んだか、という中傷が大量に載せら
れた。
要するに、昔から戯作の中などに存在した 『 女には強姦願望がある 』 と
か、『 強姦は、された女性が煽っているもの 』 という詭弁を生身の人間に
そのまま当て嵌めた理屈だが、先の醜悪なPCゲームのルールがそのまま
罷り通っているといった体裁だ。
それでも当初は、内心では、それはやはり加害者が思い止まれば済んだ
ことだろうと分かっていながら揶揄している節のある中傷が多かった、と
天蓬は言う。
しかし、最初に派手に取り沙汰された殺人事件から二十年近く経った今、
被害者側にのみ落ち度を求める意見 『 しか 』 知らない層が丁年に達し、
既に社会の中核に押し上がって来ている。
彼らは特に底意地の悪い考えを持ってやろうという意識さえ無しに、ただ、
女性が強姦の果てに殺されたと聞かされれば、無条件に 『 だったら、女性
に殺されるだけの理由があったのだろう。』 と考えることが出来る人種であ
る。
そして、その新人種の中にはどうやら、女性も含まれていたようであった。
知らず知らずにそういった意見に慣れ親しみ、同性であるはずの女性の
殺害を知っても、自分だったらセックスのために一度使われて用が済んだ
とばかりに殺されてしまうなどという恐ろしい目に遭いたくない ・・・ と考える
代わりに、ただ、じゃぁ女の方も楽しんだのだろう、と考えるらしい。
「 そういう人の一人があれを書くんだと思うんです。」 天蓬はそう結んだ。
男性の受け側を描くのに、これまで同性が苦しめられてきた理屈をそのまま
用いたのでしょうね。男性の場合、勃起や射精があったことをも、了承の印
と見做してしまうのでしょう ・・・ と。
「 明らかにおかしいだろ、それ。」 捲簾が答えた。
「 そんな理屈が成立するなら、セックス以外何にだって応用可能だ。
強盗をして金品を奪った後で、擽って笑わせ、相手がくすりとでも声を立て
たら、『 仕合せそうに笑ったので、金品は持っていって良いという了承を
得たと認識しました。』 と言えるという勘定になる。」
「 はぁ ・・・?」
「 身体反応だから同じだろ?その気の無い男が前立腺を刺激されて身体
的に反応したから和姦でしたって言うのとさ。」
「 ああ ・・・ そういうことなら同じです。」
天蓬が同意する。
「 さっきの同人誌とやらは、性質が悪かったぞ。態々括弧書き以外の部分
で、そいつにその気が無かったことを強調してあるんだ。
会話部分で否定してあれば、嘘を吐いているとか、嫌よ嫌よも好きのうち
ってぇ可能性も残るんで、客観視出来る部分で嫌っている行為だと描いて
ある。その上で強姦し、身体が反応したといって被害者を責め、全てを
被害者の落ち度にしている。」
「 ええ、その通りです。」
「 恐ろしい女だな。注意書きが付いていて、嫌いな奴は読まないで欲しい
とか、冗談として受け流して欲しいと書いてあったが、あくまで自分が責め
られないための予防線で、子供の目からそれを遠ざけようとする工夫も
無ければ、そのまま実行すれば被害者に大腸破裂の恐れがありますとか
いう注意喚起をする気もさらさら無い。
嫌なら止めろと一言書いておけば、全てに有効な免罪符になる気で居る。」
「 ええ ・・・。」
もう一度頷いて、天蓬は灰皿に煙草を押し付けた。
「 気に入らなかった誰かが嫌な気分になることが問題では無く、気に入った
誰かが取るかも知れない行動や、読んだ者のその手の犠牲者に向ける視
線が変わってしまうかも知れないということこそが問題なのですが、それには
思い及ばないようです。」
深い溜息を吐くと、立ち上がり、本棚に凭れて話していた捲簾の前に立って
両肩に手を掛けると顔を覗き込んできた。
「 でも、ボクも犯罪小説とか普通に読んでいることは知っていますよね。
その中には強姦シーンも出てきますし、その場合は強姦殺人になることの
方が多いですから、暴力描写はもっと酷いことになります。
ただ、ボク、そちらで震えたりしたことは無かったんですよ?」
目の前に立って静かに、しかし内面に複雑な色を滲ませて問い掛ける様に
そんなことを言う天蓬に捲簾は戸惑った。
「 そう言えばそうだったな。別に怖がってはいなかった。」
同意はしてみたものの、真意は測りかねた。
「 これに限って嫌がる理由があるってことか?これにだけある特徴が?
お前、悪意って呼んでいたよな。」
「 ええ、悪意です。作者のね。・・・ 他の犯罪小説の作者は必ずしも悪意を
持って書いていないと思います。」
天蓬を驚かせたものは作者の底知れぬ悪意であった。
嫌がる相手を威し、罠を仕掛け、陥れる強姦者に対しては、それを咎める
言葉一つだに用意せず、犯罪性を問う事もない。
逆に被害者には、ちょっとした表情の変化だの、捲簾言うところの身体反応
さえも、誘っていた証拠として描き、糾弾し、加害者の行為を正当化する。
物語中の登場人物が架空の存在であったとしても、それを書いた女性の
その感性だけは現実のものだというおぞましい思いが天蓬にはあった。
「 普通に生きて行きたいと願っただけの人物をそこまで糾弾出来るその女
性の気持ちがボクには怖ろしくて ・・・。」
天蓬が捲簾を見詰めたままそう言った。
「 あの冊子の書き手の場合、主な結末は3パターンあって、3つのうちの
どれかになることが多いんです。」
先ず、被害者が酷い蹂躙を受けるうち、蹂躙に慣れた身体が遂に快感を
感じ、それを以って蹂躙者に屈服し懐いてしまい、どうか自分を所有し続け
て欲しいと縋り付くところで終わる。
強姦が仲間内で行われる場合は、大抵このパターンであり、時には延々犯
され続けている場面で、仲間が一方的にそう宣言したりする場合もあった。
二つ目は、蹂躙した相手が飽きて去るなり、被害者が自分で逃げ出すなり
して、その場を逃れた後、自身の身体が如何に 『 いやらしく 』 出来ており、
『 淫らな 』 ものであったかを思い知って、人生観を変え、自分が男に抱か
れるために存在したのだという新たな認識を得るところで終わる。
三つ目は、やはりどうにかしてその場を離れた被害者が、仲間の所に戻り、
穢れを拭ってやると言われて、先程と同じかそれ以上に手ひどいやり方で
強姦される。
若しくは、仲間がそれまでその男に手を出していなかったという設定にして
『 外でまでやらせる奴だったのか!』 と感心し、『 そんな仲間が居ながら
気付いてやれなかったのは自分達の手落ちだ 』 と当然の様に犯し始める。
・・・ いずれにしても、被害者にとって何一つ救いの無い結末であり、特に
仲間が出迎えるパターンは強姦に対するケアとしては最悪だと感じられた。
「 少なくとも書き手は、そんな風に強姦され、逃げ戻った後仲間に、『 汚い
身体 』 『 いやらしい身体 』 と言って貰えたら嬉しいと感じる人だということ
なのでしょうが ・・・。」
「 だろうな。それとも自分が異性のパートナーにそういう待遇しか受けた事
のない奴なのかも知れん。」
「 漢字も碌すっぽ知らない素人の学生や主婦が、こんな結論に執着し、
何度も何度もそれを書いており、また、そういう作品を全く違和感を持たず
に歓迎して受け取る層というのがかなりの数、存在するということですよね。
・・・ 一体、何故そこまで他人の不仕合せを望むのだか。」
天蓬は手を離して、深い溜息を吐き目を伏せた。
「 ここまでのどす黒い悪意に出遭うと流石に気が滅入ります。
それにね ・・・。」
捲簾から離れた天蓬は、別の棚の隅から数冊の本を抜き出してきて、捲簾
に見せた。
「 貴方に渡した同人誌はオリジナルストーリーではなく、一種のパロディ
なんですが、これが原作なんです。この中に出てくる一人が、殊更に惨い
強姦の犠牲にされる傾向があるんですが ・・・ どう言ったら良いのか、その
人物が一番理性的で穏やかで、自分からは荒々しいセックスなど求めそう
にない人として描かれているんです。」
「 何それ?」
まぁ、最初から荒(すさ)んでいる人物を荒ませても面白く無いとか、真面目
そうにしているから 『 淫乱症 』 呼ばわりが際立って良いとか、そういう都合も
あるのかも知れないとは、天蓬も考えてはみたようだ。
それでも、穏やかに暮らしていても、人に優しく自分に厳しくと自制を利か
せて生きていても、それを殊更に 『 淫乱症の兆候だ 』 と歪めて眺める眼
が存在するということでもある。
天蓬にはその邪推を無理矢理やってのけた書き手が、邪推する自分自身
を 『 いやらしい身体 』 とか 『 弩淫乱 』 と認識しないのが不思議で仕方無
かった。
「 この人、他人にだったら、歩く時右足と左足を交互に出している!これは
男を誘っている証拠だ!・・・ とまで考えかねない人ですが、そこまで考え
られる自分が 『 弩淫乱 』 の 『 いやらしい 』 人格だとは思わないんです
ね?」
天蓬の口調に少しずつ怒りが混じり始めていた。
どんなに淫乱から遠い人物でも、自身が淫乱呼ばわりをしたことを以って、
淫乱の証拠とするというやり方をされれば、この世に無事で居られる者など
居ない。
そんな社会の出現をこの女は望んでいるのだろうか、と疑ってもいた。
そして、最近になって天蓬はそれが杞憂とも言い切れないことを知った。
「 こういう考え方って、今、非難されるのではなく、広まり始めているように
思うんです。」
天蓬は、憂鬱そうに部屋を横切ると、また書棚の違う場所からもう一冊の
本を取り出し、捲簾に手渡した。今度は可愛らしく描かれた山羊と狼の表紙
が付いている。
それは天蓬が気に入ったと言って、周りにも薦めていた創作童話であった。
「 子供が読んでいる本までが、同じ種類の複数の人間によって、同様の
パロディのネタ元になっているんです。これに感動した子が見たら何と思う
ことやら。」
勿論、その本にも強姦を連想させる要素などは無い。
それが、主人公二人が男性であるというだけの理由で、醜い強姦ものに
変貌を遂げていた。つまり、見境が無くなっているのである。
ちょっと前までなら、友情と呼ばれた種類の物語であったことを考えた時、
天蓬はそのことで初めて、この手の悪意は一般化し普及してゆくものだと
知って暗澹たる気持ちになったのだ、と話した。
面白半分でやっているのだろうが、子供の感動を踏み躙るような行為であ
った。
「 それで余計にね、本来優しい人に描かれている者を殊更に好んで淫乱
症呼ばわりするそれらの小説に腹が立ったんです。御清潔にやって欲し
いのでは無く、ちょっとは人間らしい人の評し方をして欲しかった ・・・。」
「 天蓬 ・・・。」
今度は捲簾の方から天蓬に手を伸ばした。
ゆっくりと引き寄せて自分の身体に沿わせるに止めているのは、この話を
思い出している時に強く抱き締めたりはされたくなかろうという配慮である。
「 ボクは人を悪く言い過ぎていますか?」
「 その 『 いやらしい 』 女のことを気遣う気は無いが ・・・。お前がそんな事
で暗くなるべきじゃない。」
「 でも ・・・。」
「 そのいやらしい、弩淫乱は放っておけって。仕草が柔らかかったとかいう
のが淫乱の証拠なら、それ書いてる奴はもうとっくに腐って堕ちてるって。
良いからもう構うな。」
軽く触れていた身体から捲簾の体温が伝わってきて、少しほっとしたような
気がした天蓬はただ頷いて見せた。
「 ならば良し。・・・ 但し、お前明日一日現場には加わるな。調練にも参加は
禁止だからな。」
「 え ・・・?」
「 警告は一度出したよな?その時改善しなかったお前が悪い。」
「 捲簾 ・・・。」
抗議しようとしたが、確かに一度警告はされていた。
「 明日は此処から出るな。もし、外で見掛けたら二度と現場復帰出来ない
ように俺がしてやる。」
真顔でそう言われて、天蓬は引き下がるしかなかった。
「 良いから今夜はもう寝ろ。」
捲簾は寝室のドアを開けて中を覗き込み、何日前のだかは知らないがベット
メイキングがされているのを確かめると、無理矢理天蓬をそこに押し込んだ。
「 ゆっくり寝ておれ。明日の態度次第では、明後日からの復帰は許して
やるから。」
「 明後日からのって ・・・。」
天蓬は驚いて声を上げたが、捲簾は構わず天蓬を部屋に押し込んで、ドア
を閉めた。
その後、先程天蓬が見せた原作とやらを掻き集めた捲簾は、それらと件の
童話を一緒に抱えて、自分も天蓬の部屋から立ち去った。
翌朝、軍務を諦めた天蓬が自室でぼんやりしていると、朝食を持った捲簾
が入って来た。
「 昨夜は済みませんでした。」
天蓬の方から声を掛けた。
「 今日は食えそうか?」
「 あの ・・・ 捲簾?ボク別に食欲は落ちてないんですけど ・・・?元々食が
細かったというだけのことで。」
「 改善しろ。」
捲簾が極め付けた。
天蓬はそれ以上食事を話題にしたくなかったのか、話の方向を変えた。
「 貴方、昨夜、原作も持ち帰ったんですねぇ ・・・。」
「 うん、ああ ・・・。ついでに童話もな。以前にお前が薦めてくれていたのに
読まずにいて悪かったと思ったから、一緒に読んでみた。確かにあれで
強姦話を思い浮かべるというなら、世の中何でもアリだ。」
捲簾があの後、遅くまで原作や童話まで読んでくれていたことを知って、
天蓬は申し訳無さそうにした。
「 下らないことに巻き込んでしまったみたいですね。」 つい声が怯んだ。
「 ただ、ボクは ・・・。原作が人を思い遣る優しい話であるだけに、同じもの
が人の尊厳否定に直結したという事が非常に意外だったんです。」
捲簾は分かっているというように鷹揚に頷いた。
「 うん ・・・。まぁ、あれだ、天蓬。世の中には色々な捉え方をする奴が居る
ってこったよ。そいつ自身も碌すっぽ教育も受けられず、誰かから 『 いや
らしい身体 』 とだけ評されて、マトモな本にも触れずに成人したんだろう。」
どう考えても徹夜明けだったにしては元気そうに答える捲簾に、多少救わ
れた気もし、下らないことだと一蹴されなかったことが嬉しいとも思い、ほっ
とした。
「 あのう ・・・。」
朝食の前に腰掛けた天蓬が、見上げるようにして訊いた。
「 現場への参加は無しという話は ・・・。」
「 それは別問題だろうに。それが平らげられなかったら明日も無しな!」
「 小学生の給食指導じゃないんですから ・・・。」
流石にむっとして文句を言った。
「 だったら、小学生みたいな食い方をするな。それから ・・・。」
捲簾がポケットから厚紙で出来た封筒を取り出し、テーブルの端に乗せた。
「 全部食えたら、御褒美にこれ見ていいぞ。」
「 御褒美って ・・・。」
天蓬が情けなさそうに笑った。
「 ディスクだ。ビデオ作品が何本か入ってる。俺が以前に見て気に入った
ものをコピーしておいた。芸術に親しめ。」
「 物語ですか。映画?」
「 いや、影絵とか砂絵とか、折り紙の類だ。綺麗だからお前も楽しめ。」
「 そうなんですか。」
綺麗な芸術か ・・・ と天蓬は思った。
いやらしい身体のいやらしい文章に滅入っていた自分への心遣いだろうか。
捲簾らしくない気はしたが、それでも気持ちは嬉しい。
勤めがあるから ・・・ と出て行った捲簾を見送ってから、天蓬は食事に取り
組むことにした。
半分ほど平らげ、残りをトイレに流して証拠隠滅を図り、皿の端っこをナプキン
で拭う。
捲簾が、平らげたのか皿を傾けて処分したのかを調べるためにそこに注目
することを知っていた。
それでも一応半分は行ったな、と満足げに思った。
「 では、御褒美とやらを見せて頂きましょうか。」
独りそう呟くと、ディスクを再生しようと立ち上がった。
入っていたのは数本の変り種アートの紹介であった。
捲簾の言った通り、影絵に砂絵に折り紙だ。
どれも美しいし、それまでの遊びとしてのそれらの概念を大きく覆す精緻な
ものであるという点が共通していた。
昔からある遊びを踏襲しながら、長い年月親しまれているだけに人々の
心の中に自然に出来上がっていた 『 上手くてこの程度 』 という常識的な
限界を気持ち良くぶち破っている。
しかし、何と無くそれ以外にも共通するテーマが隠れているような気がして
ならなかった。
識閾下に明らかな共通項を感じていながら、それぞれ表現手段が違うため
当初分かり辛かった主張が、何度か眺めている内に、何と無く掴めて来た
ように感じられた。
光源との距離を違えて作り出された、父親らしい大きな手と、生まれて間無
しの赤ん坊が差し出しているらしい極小の手が影絵の中で絡み合っていた。
大きな手が、生命の奇跡を確かめるかのように小さな指先をそっと摘まん
で揺すり、それに反応した赤ん坊の手はその極小の掌全部を使って父親
の指先を握り締める。
砂絵では、器用に描かれ美しく仕上がった男女のカップルが少しずつ歳を
取っていった。
歳と共に変わってゆく二人の姿 ・・・ それでも二つの砂絵は寄り添い、微笑み
合いを続けている。
更に工程数を従来のものとはべき乗級で違えている複雑な折り紙は、製作
者自身によって紹介されていたが、その気の遠くなりそうな複雑怪奇な工程
を可能にした秘密が数年から数十年という長い歳月だと、満面の笑顔で
語っていた。
そこに共通するものは命への賛辞であり、人間への敬意であったろう。
それらの芸術のどれもが、表現する内容を以って、更には精緻な技術で
あるが故に、習得の困難を克服したことに拠ってもその念を表現していた。
見惚れている間に何時の間にか時間が過ぎていたようで、はっと気付くと
直ぐ後ろに昼食の盆を持った捲簾が立っていた。
「 確かに綺麗ですねぇ ・・・。絵的にというのもありますが、もっとこう心情的
にも。」 天蓬が振り向いて感想を言った。
「 うん。」
「 ねえ、捲簾?」
食事をテーブルに置いている捲簾に呼び掛ける。
「 この音楽は捲簾が選んでくれたのですか?」
天蓬は影絵と砂絵の両方のバックグラウンドに共通して流れていた音楽
のことを尋ねた。
「 両方とも、WHAT A WONDERFUL WORLD ですが。」
「 俺じゃない。パフォーマーかスタッフか、誰かは知らんが、別々の奴が
偶然に同じ曲を使ったんだ。」
「 I hear babies cry, I watch them grow の部分が影絵と合うからという以上
に、全体の雰囲気が良く合っていますよね。」
天蓬が感心してみせると、捲簾がそうだろうと言うようにニヤリと笑った。
「その WHAT A WONDERFUL WORLD は特別製だからな。数え切れない
程のカヴァーが出ているが、そいつはサッチモの奴さ。」
サッチモ ― ルイ・アームストロング ― が歌ったそれは、人生のほぼ終焉
に近い時期にレコーディングされ、本人の死後に大ヒットした。
その歌詞にある長閑で牧歌的な内容とは正反対に、人種差別と貧困と暴力
の中に生まれ育ち、自身の生年月日すら知らずに一生を終えた男が、人生
のほぼ最期に選んだ曲。
WHAT A WONDERFUL WORLD という単純な言葉がサッチモの口から出
ると、重みを持つような気がするんだ ・・・ 捲簾はそう語った。
天蓬が捲簾を見上げると、捲簾は何かに気付いたように付け加えた。
「 いや ・・・ 言葉に重みを付ける為に授業料を払えと言っているんじゃない。
逆に多過ぎる授業料を払って喘いでいる奴に、こんな時にすら人生を賛美
出来るのは素晴らしい事だから是非そうしろとも言わない。
でも、結果としてそう出来ている作品を見れば、誰もが美しいと感じる。
俺だけじゃないからこそ、全くお互いに関連無しに作られた命がテーマの
作品に、別々の人間がその曲を選んだりするんだろうよ。」
「 そうですね ・・・。」
天蓬は食事を置いてソファに腰掛けた捲簾の傍に座って、そっと凭れ掛か
った。
「 多分世界は良い方には向かっていない。何処も彼処(かしこ)もな。」
捲簾が続ける。
「 だからこそ、偶には息抜きして、ちゃんと綺麗なものも見ておかないと。」
「 ええ ・・・。」 凭れていた身体を押し付けてみる。
捲簾も横を向いて迎え容れ、髪の毛を掻き分けるようにして、耳元に優しく
囁いた。
「 ところで天蓬 ・・・。」 そして天蓬を抱き寄せたまま、急に語調を変えた。
「 朝食は正直、どれだけ食べたんだ?残りを捨てる前に?」
「 失敬ですねえ ・・・。」
天蓬が顔を顰め、相手の胸を腕で押すようにして身体を離す。
「 ちゃんと食べてるでしょうに。」
「 ちゃんと ・・・ ね?魚の骨ごと、ちゃんとか?」
「 あ ・・・?」
一瞬ぽかんとした表情を浮かべたのち、為す術の無くなった天蓬は脱力し
たように 「 あはは ・・・ 」 と笑った。
「 もういい。昼食は全部食え。時間に余裕が有るからずっと見ていてやる。」
結局天蓬は、部屋を出ておらず何時にも増して食欲の無い身体に無理に
昼食を詰め込んだ。
後ろで連続再生させているビデオが演奏を繰り返している。
I see trees of green, red roses too
I see them bloom for me and you
And I think to myself, what a wonderful world
まぁ一応、この状況で捲簾に見張られながら食事を詰め込んでいるという
状況から見ても、世界は未(いま)だ素晴らしいものには違い無かったろう。
・・・ 多分!
