─翔─2<亘とアゲハ蝶> 秋に入る、ほんの少し前の事だった。 亘は自分のうちのマンションの玄関前の階段の壁のところにもぞもぞ動くそれを見つけた。 もう口から白い糸を吐き出し始めているそれを、亘は両手でそっと包むように掴むと家に持ち帰った。 「そういや、亘。あの蛹ってどうなった?」 中庭から戻ってきて昼休みの残り時間。クイズの出しあいっこをしながら、遊んでいる時にカッちゃんが 聞いてきた。 亘は何時もながらのカッちゃんの唐突な質問にもなれた調子で返事を返す。 「ああ、あのアゲハの蛹?まだそのまんまだよ」 「蛹になってからずいぶん経つじゃん。まだ蝶にならないのかよ?」 「お前、バカか?今のこんな寒い時期に羽化するわけ無いだろ?蝶になるのは冬が終わって春になってからだ」 横で本を読みながら二人のやり取りを見ていた美鶴が、ぶっきらぼうな声で口をはさんで来た。 バカと言われたカッちゃんは少しムッとして、美鶴を睨むと口を尖らせながら言った。 「だって外にいる訳じゃねーんだからさ。もしかして蝶になったのかなと思うじゃん!」 「だから暖かい部屋には置かないようにしてるんだよ。勘違いして羽化する事もあるって聞いたから。 今蝶になったって外に離してやれないから、可哀想だモンね。そうだ!今日、見にくる?」 「お?いいのか?そういや、しばらく亘ンち行ってないもんな。ヨシ!ゲームで対戦しようぜ!」 「俺も行く」 本をパタンと閉じて心なしか、凶暴系が少し入った声でそう言う美鶴にカッちゃんは得体の知れない寒気を 感じ、亘は単純に喜んで目をキラキラさせていた。 傍から見れば俗に空回りの構図です。 「ほら。これ」 亘が差し出した飼育ケースの中をカッちゃんはまじまじと見ると、つまらなさそうに呟いた。 「動かねーじゃん?」 「蛹だもん。当たり前だろ?羽化するまでこのまんまだよ」 飼育ケースの中には適度に湿度が保たれるよう、小ビンに水を入れて置いてあった。 幼虫が蛹になりやすいようにと亘は捕まえて来た時、添え木になるような小枝も入れてやったのだが幼虫は それを無視して、次の日ケースの天井にぶら下がって蛹になっていた。 弟や妹がしょっちゅう得体の知れない生き物を捕まえてきては、飼いたがって困ると常日頃ぼやいていた宮原に その話をしたら、幼虫の特徴からそれはきっと、黒アゲハ蝶だと教えてくれた。 「ここら辺じゃ、珍しいね。春になったらきっと綺麗な蝶が出てくるよ」 亘はそう言われて、はりきって大事に世話をする事に決めたのだ。・・・といっても、蛹相手にたいして する事はなかったのだが。 「ふーん。そうか。オーイ、早く蝶になって出て来いよ!」 なんともおざなりにカッちゃんはケースの中の蛹に声を掛けると、さっさとゲーム機の方に向かっていた。 亘はため息をつくと、ケースをそっと自分の勉強机の上に置き、隣にいた美鶴に声を掛けた。 「美鶴も一緒にやるだろ?」 「小村の慌しいゲーム操作に付き合ってたら、頭が痛くなるから俺は横で本を読んでるからいい」 亘はええー?と不満を口にしながらも仕方ないと思ったのか、カッちゃんの横に行き、二人でぎゃあぎゃあ 言いながらも、ゲームをやり始めた。 美鶴はそれを横目で見ながら亘のベッドに腰掛けると、かすかにあきれたようなため息をついて持ってきた 本を読み始める。 叔母あたりが目にしたら、あんたらそれでも健全小学生男子なの?!と外に放り出されそうな構図だな、と 美鶴は思った。 そしてもう一度机の上にあったケースの中の蛹をチラリと見ると、静かに視線を本に落とした。 フワリ フワリ フワリ フワリ フワリ フワリ ああ、また逃げられる。美鶴はそう思ってがっかりした。 せっかく綺麗な蝶を見つけたのに。せっかく捕まえたと思ったのに。 なぜだろう。いつも虫かごに入れる前に逃げられてしまうのだ。 (慎重にしすぎなのよ) そう言って誰かが傍で笑っている。そして白い綺麗な手が伸びてきて、美鶴の頭をそっと撫でた。 (あんまり蝶が綺麗で小さいから、傷つけちゃいそうな気がして怖くてちゃんと掴めないのね。 だから網から出す時に逃げられちゃうのよ) そして再び柔らかな笑い声が静かに響いた。(・・・美鶴は優しいのね) フワリ フワリ フワリ フワリ フワリ フワリ 美鶴は空高く飛んでいってしまう蝶を、額に手をかざしながら眩しそうに見つめた。 本当は自分のものにしたかった。 本当はすぐ傍においておきたかった。 でも、あんなにもはかなくて小さい、綺麗な生き物を美鶴はどうしても強く捕らえたり出来なかった。 だって壊してしまいそうだ。 だって傷つけてしまいそうだ。 ・・・・その誰も触れてはいけないような綺麗な羽を、もいでしまいそうだったから。 ───怖くて怖くて・・・出来なかった。 ───怖くて怖くて・・・・出来ないんだ・・・。 「美鶴?」 呼びかけられてふと目を開けるとすぐ目の前に亘の大きな瞳があった。 キラキラした真っ黒な瞳の中心にボンヤリした美鶴の顔が映っている。 「・・・亘?」 「目、覚めた?何時の間にか寝てたんだよ。美鶴」 微笑みながら、そう言って自分を上から覗き込んでくる亘に美鶴は目を瞬いた。 そして思わず辺りをキョロキョロと見渡す。気がつけばベッドに横になっていた。 「カッちゃんのあんな騒がしい声を聞きながら良く眠れるね?」 「・・・・小村は?」 「帰ったよ。何かおばさんに頼まれごとしてたの思い出したとか言って、急に慌てて」 美鶴は自分の前髪をかき上げながら、ようやく状況を把握したように大きく息を吐いた。 「寝たから咽喉、渇いたんじゃない?ジュースかなんか持って来るから、待ってて」 そう言って自分から離れようとした亘の腕を美鶴は咄嗟につかんでいた。 「え・・・」 急に腕をつかまれた亘は驚いたように目を見開いた。どうしたんだろうという感じで、首だけ美鶴の方を振り返る。 「美鶴?」 「いい・・・いらない」 「え?でも・・・わっ?」 掴まれた腕を思い切り引かれて、亘は美鶴のうえに覆い被さるように倒れこんだ。 いきなり何が起きたのか、まるでわからなくて亘は目を白黒させる。 美鶴が恐る恐ると言った感じで、そっと両手を亘の背に伸ばしてくると、そのまま優しい力で抱きしめて来た。 そしてそっとそっと壊れ物を扱うように静かに静かに亘の背を何度も撫でた。 まるで亘の背中に羽があって、その羽をもいでいないか確かめるように。 そこにちゃんとその綺麗な羽が存在してるか確かめるように。 「美鶴・・・?」 亘は戸惑いながらも美鶴のその行為を何だか止めてはいけないような気がして、おとなしく美鶴の好きに させていた。そしてかなり恥ずかしくて勇気が要ったけれど、自分も恐る恐る美鶴の背中に手を回して ゆるく抱きしめ返した。 美鶴が顔を上げて亘の顔を覗き込む。亘はちょっとビックリしたような顔をすると、次に頬を少し赤くして、 どうすればいいのかわからないといった感じで俯いてしまった。 ───本当は自分のものにしたい。 ───本当はいつでもすぐ傍においておきたい。・・・・自分だけのものにしたい。 「・・・本とは」 「え・・・?」 美鶴は抱きしめる手に力を込めると、くるりと体を反転させてお互いの位置を入れ替えた。 「み、美鶴?!」 今度は自分が上から美鶴に覆い被さられてしまい、さらに動きを封じ込められたような形になって亘もさすがに 慌てた声を上げる。 「・・・・って、言ったら?」 「え・・え?」 今のこの状況にすっかり動転してしまい、真っ赤になってパタパタと手足をばたつかせている亘の耳元で美鶴は かすかに何かを囁いた。暴れていた為、聞き取る事が出来なくて聞き返した亘に美鶴はもう一度、触れそうな くらい近づくとその耳たぶに口付けるようにそっと呟いた。 そのかすかな呟きを耳にした瞬間、亘は大きく目を見開くと動けなくなり固まってしまった。 美鶴は背に回していた手を静かに解くと、動けなくなって固まっている亘の両手に重ねて握りしめる。 そして今度は真っ直ぐ亘を見つめながら、小さな声で問い掛けた。 「嫌か・・・?」 まるで魔法に掛けられ、魅入られたように動けなくなっていた亘は美鶴のその問いかけにやっと我が戻ったように 何度も目を瞬かせた。 けれど戸惑いながらも、思わず泣きそうに顔を歪めさせながらも、亘は自分よりもっと切なげな顔をして自分の 答えを待っている目の前の相手に、かすれてほとんど聞き取れないような小さな小さな声で、それでも返事を 返していた。 「・・・嫌じゃ・・・ない、よ・・」 美鶴は目を細めると握り締めた両手に力を込めて、ゆるく亘に自分の体を重ねた。 ───春は遠く、蛹がアゲハ蝶に羽化するのはまだまだ・・・・先。