甘える金槌 23:05 2016/04/08 20:18 2022/05/24  日々の生活の中で苛立ちが募ると、無性に身体を動かしたくなる。その欲求が健全な方法で発散させられるものならば問題は無いが、物や人に当たり、そして壊したいというものになると、簡単に解消する事もできず、長い時間をそのストレスを抱えたまま過ごす事になった。  食事や読書、睡眠など、代替となる行為で紛らわせようとしても上手くはいかず、そうして無駄な時間や行為を積み重ねる事自体が更に苛立ちを募らせる。そうした中、ふと紛れ込んだ山中で出会った少女は、そのどうしようもない欲求を向けるのに非常に適していた。どれだけ傷つけても何事も無かったかのように再生し、責める事もなく、微笑んで受け入れる。  山の奥の打ち捨てられた神社の境内で、少女の話に少しばかり付き合い、菓子パンを与えた。  目を細めて顎を上下させ、機嫌良さ気に感想を述べる少女に自身の望みを伝える。二度目三度目ではないが、この瞬間はいつも緊張した。拒絶される事を恐れ、臆病風に吹かれる。ただただ人体を損壊したいという衝動だけがあり、人に嫌われる事は恐ろしかった。 「んー? 良いですよ。どうぞ」  相手の心情を知ってか知らずか、少女は与えられた菓子パンに舌鼓を打つ間に細めたままの目で答える。安堵に似た感情から口元がほころぶのを感じ、努めて平静を装う。傍らに下ろした鞄から、このためだけに買ってきた金槌を取り出した。 「それ、新品ですよねぇ? もしかして、わざわざ買ってきましたの?」  肯定し、小さく何度か素振りをする。しゃがみこんで土を叩くと、金槌の形に合わせて丸く凹んだ。次は少女の頭がこうなる。裂けた頭皮から血が溢れ、赤く濡れた黒髪のおぞましさが目に浮かぶようだった。 「はぁー、そですか。いやはや、中々準備が宜しいですな」  空想の端で少女が眉を顰めるのが見える。本気で嫌悪を示している訳ではない。ただ呆れているだけであり、それすらふりにすぎない。  傷つけたいと頼むでもなく伝える瞬間には血の気が引くようにさえ思われたが、一度それを過ぎてしまえば、それ以外の事は意外なほどなんでもなく感じられた。  空いた手で手招きをすると、少女は大人しく従う。そして、促されるままに膝を付き、汚れることも厭わぬように、乾いた土の上に正座した。 「はいはい。……これで宜しいですかね」  少女が目を閉じているのに気付き、それを指摘する。金槌は素手と違って、深く頭に刺さりやすい。押し込まれた頭の肉が眼球をこぼれさせるのなら、少女はそれを嫌うのかもしれなかった。 「……目? ……いえいえ、そんな事は思いもしませんでしたな。実際、頭叩かれて眼ん球飛び出るってのは、どの程度起こりうるもんなんでしょかね」  少女の疑問に答える術は持たなかった。幼げな少女の頭を殴打して喜ぶ猟奇的な嗜好を持ってはいたが、そういった事について調べ、見識を深めようと考えた事はなかった。少女以外の誰に同じ事をした事もなかった。 「くけっくけっ。そりゃあそうでしょう。経験があれば、あなたが今ここにいらっしゃるはずが無い。する側にしろ、される側にしろね。……どうなさいました? 金槌は持っただけですか?」  少女は目を閉じない。金槌を振りかぶると、ふと、先程までの目を閉じた少女の姿が思い起こされた。自身の瞼で視界を覆い、相手のなすがままにされるのを待つというのは、まるで口付けを待つ乙女のようではなかったか。ただ、それを口にするのも、そんな事を考えている事さえも気恥ずかしく思われ、自分をごまかす為に金槌を振り下ろした。  金槌が少女の頭を打つ。溜めが甘かったのか、手ごたえは微妙だった。金槌が弾いた分だけ少女の頭が動いたが、それだけだった。 「くけっくけっ。どーしたんですか。力が入っておりませんよ? まさか手加減などした訳ではありませんわよね?」  少女の嘲りに答えず、金槌を持った手を垂れ下がらせる。包んだ指からも力を抜くと、金槌はゆっくりと手の中を滑り落ちた。 「んん。どうしました。上手く行かなかったので嫌になってしまいましたか」  少女は上体を伏せ、足元に落ちた金槌に手を伸ばす。金槌を掴むと身体を起こし、立ち上がって膝を掃った。一切汚れているようには見えなかった。 「んじゃあ、次は私の番って事で良いですか?」  言葉の意味を理解した直後に、飛び上がった少女の金槌がこめかみを打った。よろめいてたたらを踏み、静止の言葉をかけるが、曲がった腹を突き上げるように拳が鳩尾に埋められた。全身から力が抜け、血でヌルついた側頭部と腹を押さえたまま、膝が折れる。 「一度や二度までなら、遊びでやっても良いんですがね? ほら、あなた、何度でも繰り返したがるし、嫌がったらたぶん二度とここに来ませんよね」  疑問の言葉が口をついた。抵抗する力は出せなかった。 「あっれぇ? 申し上げませんでしたかなぁ。私、他の生き物の記憶が見れるんですよ。考えてる事も分かるんです。ですから、まぁ、この辺りが潮時かな、と。頂いたパンも美味しかったですけど、きっとあなたも美味しいんでしょうなぁ」  精一杯の努力をしても、顔を上げて少女の姿を捉える事しかできなかった。少女は金槌を振り上げている。 「頂きまーすー」  瞬間、他人を傷つけたいという欲求は、それすらも代償であり、本来は自分自身が壊される事だったのかもしれないという発想が湧いたが、それは死を恐れるあまりの逃避だろう。