龍の夢、夏の宿 2020/08/13  夢を見た。巨大な龍と戦う夢だ。龍は世界に仇成す存在で、俺はそれを倒さなければならないのだ。  そこまで分かっているのに、俺はそれがどうにも悲しかった。その後、俺達がどうなったのかは分からない。夢はそこで終わった。  天井から響く重低音に夢を破られた俺は煎餅布団から跳ね起きた。時計を見るとまだ夜は明けたばかりで、部屋も薄暗かった。  上の階には幼馴染の加波千恵佳の部屋がある。俺は慌てて部屋を飛び出すと、一段飛ばしで階段を駆け上がった。まさか部屋で気を失って倒れてでもいるんじゃないだろうなと、嫌な予感が頭をよぎる。 「千恵佳!大丈夫か!?」  声をかけながら部屋のドアを勢い良く開け放つと、寝間着の前を肌蹴け、パステルカラーの下着を露わにした千恵佳と目が合った。どういう流れで服を着替えてるんだよお前はと思う暇もなく、暗がりの中でも分かるほど見る間に顔を真っ赤にした千恵佳は、次の瞬間、絹を裂くような悲鳴をあげる。 「きゃーーーーーーーーーーー!」 「す、すまん!」  千恵佳から顔を背けてドアを閉めようとする俺は、殺気を放つ第三者の存在をすぐ傍に感じた。が、時すでに遅し。悲劇は避けられなかった。 「何やってんだぁーーーーーーー!」  隣の部屋から出てきたもう一人の幼馴染、菜綱詩緒璃の絶叫が家中に轟くのと、詩緒璃の飛び蹴りが俺の肩口に突き刺さるのはほぼ同時だった。 「ぐえー!」  大した活躍も出来ないまますぐやられる雑魚敵のような情けない悲鳴をあげながら、俺は素早く駆け上がった階段を更に素早く転がり落ちた。 「早とちりで飛び蹴りを食らわせたのは全面的に私が悪いと思っている。だけど私は謝らない」 「そこまで言うなら謝っても良いんじゃないか……」  未明過ぎの一件の後、俺たちは再度寝直すという気にもなれず、リビングに集まってダラダラとしていた。その内に腹も空いてきたので、俺と詩緒璃は食卓で駄弁りながら、千恵佳が朝食の準備を進めるのを眺めている。  いつもなら食事の用意は俺たち全員でするのだが、今朝は千恵佳が一人ですると言ってきかなかったので、そのようにさせていた。千恵佳なりに俺たちに借りを返したいという事なのだが、あんなのは貸しの内にも入らないだろうに、千恵佳は昔からどうも律儀なところのある奴なのだった。俺の隣にいる小娘は、ほぼ謝っているに等しいとはいえ一貫して「私は謝らない」の一点張りなのに。  俺と詩緒璃は先月から加波家の居候をやっている。それというのも、先月、俺たち三人の両親がみんな揃って長期出張に出る事が決まってしまったのだが、千恵佳と詩緒璃は女の子だし、一人で留守番をさせるのは心配だという話が二人の家で持ち上がったらしい。そこで、幼稚園の頃から実の兄妹のように親しい俺たちが一緒に住めば安心できるだろう、と千恵佳が提案したのである。  いくら兄妹のような関係とはいえ、思春期の男女を一つ屋根の下で寝泊まりさせるのは問題なのではないかと思わなくもなかったが、俺以外の全員がノリノリでその案を採用してしまったため、俺も黙って自前の煎餅布団と共にこの家に転がり込んで来たのだった。  家の前で千恵佳の親父に満面の笑みで言われた「しっかし涼真君が家に泊まりに来るなんて本当に久しぶりだなぁ!」という言葉が印象深い。誰一人として、一ミリたりとも俺を警戒していないのである。もちろん俺だって変な考えを起こす気は微塵もないが、もう少し意識してくれても罰は当たらないのではなかろうか。  と、思っていた矢先の出来事だったので、おかしな話だが、俺は冤罪で飛び蹴りを食らわされても実はそんなに悪い気はしていなかった。 「深夜に全裸の男が婦女子の部屋の前で息を荒げていたら誰でも蹴り飛ばす。それがたまたま涼真だっただけ」 「半裸な。全裸じゃなくて半裸。パンツは穿いてたから。恋人でもない女の子に大切な所を見られたなんて噂になったら俺の清純なイメージが崩れるから気を付けてくれよ」 「清純。清らかで穢れていない事」 「あれ?なんで今清純の意味教えてくれたの?ねぇなんで?」 「言わせないでよ。恥ずかしい」 「違うシチュエーションで違う娘に言われたかったなぁ!それ!」  俺たちがじゃれあっている間に、目の前にはトースト、ハム、目玉焼き、サラダ、オレンジジュースが次々と並べられていく。実に素晴らしい朝食だ。理想的と言っても良い。  三人分の食事を華麗に作り終えた千恵佳はそのままの勢いで食卓に着くと、胸の前で手を合わせた。 「はい、終わり。食べよ!」 「ああ。ありがとう」  俺が礼を言って箸を手に取ると、先ほどまでやりとげた顔をしていた千恵佳の表情がにわかに曇った。 「二人ともごめんね……昨日は嫌な夢を見ちゃって……気付いたらベッドから落ちてて……」  千恵佳は今朝からずっと、折に触れては平謝りを続けている。この文言ももう十回は聞いた気がする。 「もう良いって。俺ら二人が勝手に騒いだだけなんだしそんな気にするなよ」 「そういえば、嫌な夢って、またあの夢?」  千恵佳の謝罪は適当に聞き流すという方針を取っている詩緒璃がふと口を開いた。  「あの夢」とは、千恵佳が最近良く見るという悪夢の事だ。なんでも、見知らぬ男に突然刃物で切り付けられ、その傷口からは血の代わりに次から次へと毒蛇や蜥蜴のような爬虫類が湧き出してくるのだという。  夢とはいえ正直ぞっとしない話だが、千恵佳はその悪夢のせいで眠りは浅いわ起きると冷や汗で全身ずぶ濡れだわ今朝のようにベッドからは落ちるわ汗で濡れた服を着替えようとしたらそれを俺に見られるわと散々な目にあっているらしい。 「うん……こう多いとちょっと参るよね……」 「何か悩んでる事でもあるの?」 「悩み……は無いと思うけど……」  千恵佳は少し考えてから首をひねる。隠しているという訳ではなく、本当に心当たりがないようだった。  強いて言うならば、千恵佳が悩んでいるのは、悪夢を見る事に付随する睡眠不足や、周囲に迷惑をかけてしまう事だろう。それなら、深く掘り下げるよりも、気にしないように仕向けてやった方が良いのではないだろうか。そう思った俺は今朝の自分の夢の話をしてみる事にした。 「今朝は俺も夢を見たな。でっかいドラゴンと戦う夢なんだけどさ」 「ドラゴンと戦うって……今時小学生でもそんな恥ずかしい夢見ないよ……」 「それは別に良いだろ!?」 「涼真は昔から大きい蜥蜴好きだよねー」 「好きなの分かってるならドラゴンをでかい蜥蜴って言うのやめてくれますぅ!?」  俺はこれでも悪夢として自分の夢の話をするつもりだったのだが、ありえないくらい話の腰を折られてしまったので、諦めてそこで全てを切り上げた。先ほどまで落ち込んでいたのが嘘のように詩緒璃とけらけら笑いあう千恵佳を見るに、俺の狙いは一応成功したらしいので、俺としてはそれで十分だった。こいつらが俺を弄り倒すのに命を懸けているのは今に始まった事でもないし、別に全然悔しくない。全然だ。  全員の食事が終わったところで、俺は空になった皿を重ねて席を立った。 「私が片付けとくからそのままで良いよ」 「そうか?悪いな。じゃあそろそろ掃除してくるよ」 「うん。いってらっしゃい」  共同生活にあたって、俺たちはいくつかの家事を分担している。千恵佳が洗濯をすれば詩緒璃は風呂を洗い、詩緒璃が服を畳めば千恵佳は食器を洗う。俺は買い出しの際に荷物持ちをし、朝には玄関前の掃き掃除をする。配分に微妙な偏りが見られる気もするが、二人の中では俺にやりたくない仕事を押し付けて自分たちはしたい事をしているという認識のようなので、そのままにしている。  俺は食器を流しに置くと、箒とちり取りを手に、玄関を出た。  加波家は山の上にある。そう高い位置にあるという訳ではないが、周囲が森になっているので、とにかく葉が散る。夏が終わると更に散る。毎日掃除していないと、あっという間に家の前が葉で埋まってしまうのである。昔は秋になるといつでもどんぐりを拾って遊べるので、千恵佳が羨ましかったりもしたものだが、実際に一か月近く住んでみると、不便な面も多少は見えてくる。  今は千恵佳と詩緒璃のおかげで続いているが、仮にここが俺の実家だったら、面倒過ぎて毎日掃除なんてやってられないだろうなと考えていたあたりで、何者かが枝を踏む音が聞こえてきた。 「顔色良し、呼吸も正常、ちょっと眠そうですが許容範囲でしょう」  聞き覚えのある声に向かって目をやると、そこに立っていたのは八久氏理央だった。彼女は入学式の一か月後という中途半端極まりない時期に俺たちのクラスに編入してきた女の子で、初日からずっとこの調子である。家、学校、街中など、行く先々に現れては、離れた所から俺の事をじっと見ていたり、何やら独り言を言っていたりする。しかし隠れるつもりはないのか、そこまで頭が回らないのか、気が付くといつも俺の目の届く範囲にいる。要するに、理央は俺のストーカーなのだ。しかも堂々としているタイプの。こそこそしているタイプとどっちがマシかは判断に迷う。どっちも犯罪だし。 「おはよう」  俺が声をかけると、理央は「見つかっちゃいましたか?」とでも言うように照れ笑いを浮かべてからこちらへ歩いてきた。本当にただその場に突っ立っているだけなので、見つかっちゃうも何もないのだが。 「おはようございます。本日の体調はいかがですか?朝ごはんは召し上がりました?悪を滅する戦いに臨む使命に目覚めてはいませんか?」 「体調は普通、飯は食った、悪い奴は懲らしめないといけないとは思うけどそれが俺の使命とまでは思わない」  いつも通りの質問にいつも通りの返答。理央は身体を膨らませて大きく息を吸うと、これ見よがしにため息を吐いた。 「はぁー……そうですか……」  ストーカー行為に電波発言、意にそぐわない事があるとあからさまにため息を吐く。本人が可愛い女の子で、相手が俺だからギリギリ許されている危険人物、それがこの八久氏理央だった。 「で、今日は何の用?」  用がないのは知っているが、一応訊いておく。というか、ある程度会話すると理央は満足して去っていくので、こちらから話を振って適当に喋らせてやった方が穏便に追い払うには都合が良いのだ。これは俺がこの数か月で学んだ理央への対処法である。告白でもしたいのかと思って気を使ってあげていた頃が懐かしい。 「いつもと同じですわ。あなたの健康で健やかな成長を見守っているのです」 「よしてくれよ母さん。俺はもう子供じゃないんだから」  最近は理央の電波発言を小ボケで流す余裕も出てきた。これはこれで楽しい。 「母さんだなんてそんな……私はお母さんというよりは……ファンですわ!」  理央は少し頬を染めて溜めを作ってから、言い切った。  ここまでのやりとりだけでも分かるが、理央は行動もおかしいが発言もおかしい。健康と健やかは同じ意味じゃないのかという事ではなく、同級生に母親呼ばわりされてちょっと嬉しそうにするんじゃないとかいう事でもない。なんで転校生がいきなり俺のファンになるんだ。華麗な受け身で事なきを得たとはいえ、俺は今朝幼馴染から飛び蹴りを食らって階段を転がり落ちた男だぞ。しかも「ぐえー!」とか言いながらだ。威張る事ではないし恥ずかしいのでこの話は墓場まで持っていくが。 「俺、ファンが付くような事って何もしてないと思うんだけど……」 「確かに、今はまだ何もなされてはいませんが……」  何もしてないというのは自分で言った事だが、あっさりと肯定されるのも意外とキツイものがある。俺だって毎日頑張ってるんだぞと言いたくて、なんだか悲しい気持ちになってきた。俺は天邪鬼なのだ。俺のファンならもっと気をつかうべきじゃないのか。 「あっ。そろそろ戻らないと。制服に着替えないといけませんしね。それでは涼真さん、また学校で」  今朝のノルマが達成できたのか、理央は一方的に話を切り上げると元気に手を振りながら走り去っていく。俺はその背中を見送りながらある点に気付いた。あいつパジャマじゃないか。お前は着替えろよ。なんで自称ファンなのにパジャマで来るんだよ。  掃除を済ませて家に戻ると、二人は部屋から鞄を持ってきたり、髪を整えたりして、登校の準備を進めていた。朝が早かったのでまだ時間はあるが、二人はもう家を出るつもりのようだ。 「今日は早めに学校行かない?教室で喋る方が時間気にしなくて良いしさ」  テーブルの上に俺のハンカチを出してくれながら千恵佳が言う。 「そうだな。詩緒璃もそれで良いか?」  詩緒璃はこくこくと頷いて返事をした。詩緒璃は一度話し始めると良く喋るのだが、話さない時は声の出し方を忘れたのかと思うほど喋らない。俺が思うに、エネルギーが余っている時はそれを全て使い切ろうとし、使い切った後は省エネモードに移行しているのだろう。  部屋で制服に着替えて鞄を手にした俺は、戸締りを二人に任せてそのまま玄関を出た。詩緒璃が俺に続き、最後に千恵佳が出てきて玄関の鍵を閉める。一度ドアノブを回して鍵がかかっている事を確かめた。 「行こうか」  千恵佳に促されて俺たちは門をくぐる。さっき外に出た時よりも日は昇っており、気温も高くなりつつあった。早めに家を出たのは正解だったかもしれない。七月の二週目、まさにこれから夏が始まろうとしていた。