少し時間が早いだけで、通学路の人通りは明らかに少なかった。車も少なく、気軽に歩く事が出来るのは気分が良い。 「あっついねぇー!プール行きたいぃー!」  千恵佳は汗の滲む額に手を当てる。日が直接当たる上に道路からの照り返し、運動による自身の熱生産も相まって、家とは段違いの暑さだった。 「プールも良いけど、海も行きたいな。俺、去年海行かなかったんだよな」 「去年は受験もあったしねぇー。プールは学校で結構入ったし、海も行きたいねぇ……」  千恵佳は受験勉強の日々を思い返すような遠い眼をする。一方俺はただボケっとしている内に海に行きそびれただけでさして勉強に追われていた訳でもないので、受験に対して振り返るような思い出も無かった。  俺たちが通う菱麻県立菱麻高等学校は普通科の定員がやたらと多いため、そう真面目に勉強しなくてもよほどの事が無ければ素通り同然に入学できたのだ。中学最後の夏の思い出なども作らなかったところで、中学校の知り合いは半自動的にほとんどが同じ菱高生になっていた。  信号待ちをしている最中、受験と海にしばし想いを馳せていた千恵佳は「あ」と声をあげて現実に戻ってくると、詩緒璃と俺を交互に見た。 「忘れる前に言おうと思ってたんだけど、二人とも、最近自分の家に帰ったりしてる?」  水筒代わりのペットボトルに口を付けていた詩緒璃は、口に茶を含んだまま首を振る。暑さに加えて今頃眠気がやって来たのか、陽射しがキツくて目が開かないだけなのか、何もかもが怠いという顔をしている。 「帰ってないけど、なんでだ?」  俺も詩緒璃も必要な物は全て加波家に置いてあるので、俺たちはここしばらく自分の家を見てすらいなかった。  千恵佳は少し得意そうな澄ました表情を浮かべながら、片手を軽くあげて人差し指を立てる。千恵佳が人に何かを教えようとする時の癖だった。 「家って人が住んでないとすぐ傷んじゃうんだって。夏は湿気も多いしさ。時々換気しに行った方が良いよ」 「じゃあ今日しに行く……けど……換気ってどれくらいすれば良いの?」  詩緒璃がポケットの中の自宅の鍵を確かめながら言う。俺の家の鍵は加波家に置きっぱなしだ。 「一時間くらいらしいよ。風がない日はもっとかかるかも」 「結構かかるんだな……」 「そうだねぇ。もうちょっと早く言っとけば良かったんだけど」 「いや、言われなかったら絶対換気とかしなかっただろうし、助かるよ。ありがとな」 「換気しなかった家がどうなるか気になるから言うかどうか迷ったんだけどね」 「それ言われると素直に感謝しにくいな!」  そうこう言っている内に信号は変わり、俺たちは歩き始める。まもなく菱高に到着した。  菱高にエアコンはないが、直射日光を浴びずに済む分、外よりは校内の方がいくらか涼しい。  1-1教室に入ると、授業の開始にはまだかなり余裕があるにも関わらず数人の生徒が既に自分の席に座っていた。やけに早くに登校してくる物好きな生徒というのはクラスに何人かはいるものだ。今日は俺もそのうちの一人だが。 「後でね」 「おう」  入口で解散した俺たちはそれぞれの席に鞄を置きに行く。 「柄川君おはよう。今日は早いね」 「おはよう。あまりに暑すぎて目が覚めちゃってさ」  机の横に鞄を引っ掛けながら、隣の席の徳瓦さんと軽い挨拶を交わす。徳瓦さんとはすごく仲が良いというほどではないが、毎日挨拶に加えて一言か二言程度は話す仲である。 「最近暑いよね」 「どんどん暑くなるから参るよ」  こういう当たり障りのない薄い会話しかしない関係っていうのも良いよな。ある種の清涼剤、癒しと言って良い。  と、思いつつ俺は流れるように徳瓦さんに嘘をついた。目が覚めたのは暑さのせいではない。が、千恵佳の名誉のために黙っておく。  徳瓦さんとのやり取りがひと段落した頃、クラスメイトの志賀蘭也が教室に入ってきた。蘭也は無造作に鞄を机に置くと、こちらへ歩を向けた。 「よう、蘭也。早いな」 「俺はいつもこのくらいの時間には来るがな」  俺と蘭也は中学までは別々の学校に通っており、菱高に入ってから知り合った仲なのだが、似た者同士というか、とにかく馬が合い、入学早々からあっという間に仲良くなった。ほんの三か月少々で言うのも早いが、もはや相棒と呼んでも差し支えない感すらある。  俺は机に腰かけながら千恵佳たちに視線を向けた。教室で話の続きをする予定だったが、千恵佳たちもそれぞれのグループの友達と雑談する方向に切り替えたらしい。俺たちはクラスでは別々のグループに属しているので、校内では話さない事も多い。蘭也を振り切って二人の方に向かうのも気が引けるので丁度良かった。あるいは二人が気を使ってくれたのだろうか。 「蘭也、今日ゲーセン行かないか?」  俺と蘭也は放課後に良くゲーセンに行く。予定が合えば良くつるんでいる他の奴らとも一緒に行くが、そいつらは部活だのバイトだので予定が合わない事も多いので、放課後の固定メンバーは俺と蘭也だけだった。  俺の提案に対して、蘭也の眉が僅かに動いた。どうも都合が悪いらしい。いつもは二つ返事で了承するのに、珍しい事もあるものだと思った。 「良いと言いたいところだが……テストは良いのか?」 「あ」  完全に忘れていたが、十日後には一学期の期末テストが控えていた。今日からテスト終了までほとんどの部は活動停止となり、菱高生たちはテスト勉強にいそしむのである。そんな中でゲーセンに行くほど余裕ぶるのは、学業に対する意識の低さを自覚している俺でも流石に厳しかった。 「じゃ、じゃあ今のは無しで……」 「ああ。ゲーセンはテストが終わってから行くとしよう。すぐ夏休みになるしな」 「そうだな……」  そこで予鈴が鳴り、蘭也は自分の席に戻って行った。いつの間にか他のクラスメイトも続々と登校しており、教室は騒がしくなっていた。  担任の城屋先生が出席を確認すると、各種連絡もそこそこにホームルームは終わった。今日は一時間目に全校集会があるので、重要事項はそこでまとめて伝えられるのである。  驚異の人口密度を誇る体育館、その壇上では校長がありがたくもうんざりするような長話を続けている。話題はもっぱら、最近周辺に出没すると言う熊騒ぎについてだ。それというのも、最近この辺りでは熊の目撃情報が相次いでいる。正確には、熊を見たという者がいれば、あれは猪だったとか、蛇の被り物をした大男だったとか、情報自体は倒錯しまくっていて誰にも正確なところは分からない。最後のはちょっとどうかと思うが、とにかく、危険な何かがこの辺りをうろついていて、それは人や小動物を襲うらしい。この学校の生徒にも犠牲者が出ており、一時はテレビ局員や新聞記者が学校の周りをうろついていた事もあった。  とはいえ、知り合いが被害にあった訳でもない俺にとっては、テレビの全国ニュースで見るような多くの事件と同じく、対岸の火事と言うのが相応しい現実感のない話だった。 「注意するようにって言われても、一日中出没するんじゃ注意のしようがないよなぁ」 「そうだな」 「分かるわぁ」  蘭也に続いて同意の声をあげるのは上級生の癒雲亜須羽さんだ。全校生徒が集まる時、癒雲さんのクラスは俺たちのクラスの隣に並ぶ事になっている。そして、その時だけ、俺たちはいつも一緒にいる仲良しトリオのように雑談に花を咲かせるのである。  実際はそこまで話が盛り上がる事はまずない。口を利いたのも全校集会での数回と、あとは六月にあった体育祭とその予行の時くらいだろう。それ以外ではほぼ顔も合わせないので、挨拶すらほとんどした事がない。それでも俺は癒雲さんの事を仲の良い友達だと思っていた。 「突然なんだけど、夏休みになったらみんなで遊びに行かなぁい?」  癒雲さんの提案は意外だった。俺たちの関係が学校の外に持ち出された事は今までなかったからだ。なんなら仲が良いと思っているのは俺と蘭也だけとすら思っていた。 「みんなって俺たち三人ですか?」 「他の子も呼んでも良いわよぉ。柄川君と良くいる女の子とかぁ」 「菜綱か……」  蘭也の嫌そうな声がする。 「志賀君はその子嫌いなのぉ?」 「嫌いという訳ではない……が……」  蘭也自身が度々言っている事だが、蘭也は女性全般が苦手らしい。昔から母親か学校の先生くらいしか女性と話す機会がなく、慣れていないというのが元々の理由だったそうだが、高校進学を機にそんな自分を変えようとしていた矢先、入学式の日に間違えて女子トイレに入ってしまい、小便器が見当たらないのできょろきょろとしていたところ、用を足して出てきた名も知らぬ女子生徒と鉢合わせ、飛び蹴りを食らわされたのだという。以来、女性への不慣れから来る漠然とした苦手意識は、明確なトラウマに裏打ちされた確かなものへとランクアップし、更にその名も無き女子生徒、つまり、詩緒璃に対する恐怖心までもが上乗せされているのである。  ちなみに、俺もその時女子トイレから後ろ向きに吹っ飛んできた大男にのしかかられたせいで危うく漏らしかけ、思わず「トイレくらい自由に行かせろよ!」と叫んだというエピソードだけが自分の名前より先に広まってしまうという苦い想いをしたが、蘭也のトラウマに比べれば可愛いものだろう。  この件に関してはちゃんと確認しなかった蘭也が十割悪いのだが、そういう訳で、蘭也にとっての詩緒璃は、嫌いという訳ではないものの、できる事なら関わりたくない存在となっているのである。  そんな蘭也も癒雲さんとは普通に喋れているのだが、蘭也曰く、癒雲さんは人間として見ていないから平気なのだそうだ。女性として見てないを通り越して人間扱いすらされていない癒雲さんには流石の俺でも共感を通り越して同情するが、確かに癒雲さんには、どこか超人的というか、人とは違うオーラのようなものがあるのは事実だった。「成績トップの美人上級生」という存在に対する無意識の憧れが働いているのかもしれない。 「でも、熊騒ぎの真っ最中に遊びにってのも気が引けますね。夏休みまでに解決してれば良いんですけど」 「県外なら大丈夫じゃなぁい?」  元々行き先の候補があるのか、癒雲さんはあっさりと言う。熊が出るといわれているのは菱麻県内だけなので県外へ行くなら確かに何の問題もないが、その計画は俺の想像よりも壮大らしかった。県外というと、遊びに行くというよりもちょっとした旅行の域だ。 「それ、私もついて行って宜しいですか?」  いつの間にか俺の横で話を聞いていた理央が文字通り首を突っ込んできた。集会が始まる前まではもっと後ろにいた筈なので、校長が話をしている中、並んでいるクラスメイトの間をすり抜けながらノコノコここまで歩いてきたらしい。見ろ、お前が列を無視してうろうろするから俺の隣に並んでる徳瓦さんがスペース不足で困ってるじゃないか。 「……あなたは?」 「申し遅れました。私は八久氏理央と申します。涼真さんのファンです」 「えっ、お前他の人への自己紹介でも俺のファン名乗ってんの」  思わぬところから殴りかかられてつい大きな声が出てしまった。普段多少の私語は見逃されるのが当然の菱高にあっても周囲の視線が集まってしまう。対して俺を見上げる理央はきょとんとしていた。 「涼真さん以外にファンを名乗るのはこれが初めてですが……不味かったでしょうか?」 「不味いっていうか、恥ずかしいだろ。俺が」 「そうですか……?」  理央は相変わらず俺が言っている事が理解できないという顔をしていた。理解できないのはお前の思考回路だ。今までは他人がいる時に近付いて来たり話に割り込んで来たりなどしなかったのに、今日の理央は奇行のレベルが高過ぎる。ファンを自称するのがそんなに気に入ったのだろうか。 「柄川君の友達なら良いわよぉ。面白そうな子だしねぇ」  俺と理央の関係を知らない癒雲さんは勘違いの元、理央の申し出を受け入れてしまった。癒雲さんは俺と千恵佳たちの事を知っているようなので、あいつらとのやり取りと似たようなものだと思われているらしい。 「本当ですか?ありがとうございます」  理央はほっとした表情で癒雲さんにお礼を言う。理央なりに緊張しながらの申し出だったのかもしれないが、緊張感の使いどころを間違っている。そもそも理央の事だから駄目と言われてもついて来るつもりだったろう。 「八久氏さん、集会中はうろうろしたら駄目よ。列に戻りましょうね」 「あっ、ごめんなさい。すぐ戻りますね」  騒ぎを見かねた城屋先生が幼稚園児をあやすような口調で理央を咎めにやって来た。先生と理央が自分を挟んでやり取りをするので、徳瓦さんはさらに居心地悪そうにする。徳瓦さんはこういう時じっと嵐が過ぎ去るのを待つタイプなので、早めにどこかに行ってあげて欲しい。いや、俺が恥ずかしいので早くどこかへ行って欲しい。 「面白い子ねぇ」 「変な奴です」  校長の熊騒動についての注意はテスト勉強に向けての激励に移っていた。来週のテストが終われば夏休みに入る。それまで気を緩めず、下校時は出来るだけ一人を避け、人通りの多い道を通って帰り、家ではこれまでの復習に励むように。そんな内容で集会は締めくくられた。 「遊びに行く話、また今度しましょうねぇ」  言ってから、癒雲さんは他の生徒に混じってさっさと体育館を出ていく。いつどうやって話をするのかと訊く間もなかった。次に会うのは終業式だろうか。 「そろそろ出ようぜ」  良くつるんでいるクラスメイトのジョーと三山が俺たちに合流しに来た。集会の解散後は出入り口が込み合うので、少し遅れた方が楽に出られる。俺たちはそれを知っているので、一旦集まってから動き始める事にしているのだ。 「しかしテスト週間か。お前らとつるむのも終わりだな」  ジョーが神妙な顔をして言う。終わりというのはテストが終わるまで放課後はつるまないという意味である。俺たちはつるむと絶対に遊んでしまうので、自戒の意味を込めているのだ。  前回の中間テストでは一緒に勉強会なんか開いたせいで酷い目にあった。特にジョーと三山はそれぞれ部活とバイトに力を入れすぎて元々学業がおろそかになりがちなところに前回のテストの結果が散々だったので、危機感もひとしおである。  放課後まではそんな戒めも効力を持たないので、俺たちはいつも通りに適当な事を喋りながら体育館を出た。  俺が動き出したのを見て、理央も離れたところからついて来る。一応理央にも理央の友達がいるのだが、彼女らは理央に何も言わないのだろうか。とにかく、今度は理央も俺たちの話に入って来ようとは思っていないようだった。  しかし長い朝だった。時間的には多少早起きした程度だったが、精神的に疲れる事が多々あった。これでまだ一時間目が終わっただけである。信じられなかった。眠たくなくても二度寝しておけば良かった。そういえば癒雲さんに理央は友達ではないと言うのを忘れていた。何もかもがグダグダだった。