何とか午前中の授業を乗り切って、昼休みに漕ぎ付けた。途中で居眠りをしてしまったので乗り切ってというのは誇張だし、漕ぎ付けたというよりは漂着したといったところだが、テスト期間中の授業はいわば予備日であり、テスト範囲の説明や復習に費やされるので、聞きそびれても取り返しは効きやすい。  こういう言い訳が積み重なって成績に反映されるんだよなと自嘲しつつ、俺は机の上に弁当を広げた。蘭也、ジョー、三山も集まってくる。俺の席は集まるのに都合が良い位置にあるのだ。 「夏休み前倒しとかならねぇかな。テストも中止で」 「それは困るんだが……」 「なんで?」 「夏休みっつーのは、それまでに知り合った女子と更に距離が縮まるもんだろう?だがな、俺はまだ女子と知り合う段階すら達成できてねぇ。この状況で夏休みに突入してみろ。想像しろ俺の夏休みを。お前の頭の中にはある二文字が乱舞している筈だ」 「悲惨」 「そうだ。答えるのが早すぎるが、そうだ」 「高校生になっても男だけってのも寂しいしな。俺も彼女欲しいぜ」  俺と蘭也のやり取りをジョーが締めくくる。蘭也はそれを噛み締めるように何度も頷いた。しかし、良く考えると恋愛まで意識していた訳ではなかったのか「彼女か……」と独り言ちる。蘭也にとってはかなり先のステップだろう。 「ジュース買ってくる」 「俺も」  弁当を食べ終わったジョーと三山が席を立つ。俺と蘭也は残る事にした。  さっきは流れでああ言ったが、異性との関わりがなければ夏休みは悲惨かと言うとそれは違うと思う。が、高校生活における蘭也の当面の目標が「女の子に慣れる」である以上、その達成に暗雲が立ち込めたまま長期休みに入ってしまうかもしれないというのは、周りが思うよりも深刻な問題なのかもしれない。世の中の半分が女性である以上、どこかでは苦手意識を克服しなければならない訳で、それは早い方が良いというのも当然の事ではあった。  薄情かもしれないが、蘭也が女性を苦手なままだったとしても、俺には影響がない。それに俺は幼馴染二人が女の子なのもあって、蘭也の悩みに真の意味では共感もできない。なので、正直どうでも良いといえばどうでも良い事だった。それより今の俺はテスト勉強だの家の手入れだのといった事柄をはるかに優先して考えるべきなのだが、こういう時に閃くのは、当然と言うべきか、優先順位の低い案件に対する名案だった。 「癒雲さんと遊びに行く話、集会の時は詩緒璃を誘うの嫌がってたけどさ、ここは逆に、是が非でも誘うべきなんじゃないか?」 「どういう意味だ?」  蘭也はいぶかりながらも食いついた。 「つまり、ここで上手く詩緒璃と仲良くなれれば、お前はもうどんな女の子とでも仲良くなれるって事だよ。好感度マイナスの女の子とすら仲良くなれる男なんだからな。でもここで何も行動を起こさないならお前は所詮ここまでの男だ。入学初日に女の子に蹴り飛ばされただけ。それがお前の高校生活だ」  詩緒璃は蘭也が悪意を持って女子トイレに入って来た訳ではない事は俺の説明で知っているので、実際は好感度マイナスというほどでもないのだが、そんなのはこの際どうでも良い事だ。重要なのは蘭也の気の持ちようを変える事である。 「一理あるな……」 「お前から誘いに行けとまでは言わないからさ。詩緒璃と、あと千恵佳も俺が誘うから、その方向で進めようぜ」 「そうだな……任せる」  誘っても二人が承諾するとは限らないが、何事も前向きに進めるべきだろう。  その後、戻って来たジョーと三山も誘ってみたが、二人とも既に夏の予定はぎちぎちに詰め込んでしまっているらしく、計画にもよるが、行けるかは分からないとの事だった。俺が言えた義理でもないが、期末テストの結果如何で夏休みが一部返上になる恐れがあるとは考えていないらしい。  そのまま午後の授業も終え、放課後を迎えた。テスト期間なのでほとんどの者はまっすぐ家に帰るだろう。 「柄川君、ばいばい」 「じゃあね、徳瓦さん」  俺は手早く教科書類をまとめた徳瓦さんの背中を見送る。蘭也たちもすぐ帰ったようだ。  教室を出ていく人の流れに逆らって千恵佳と詩緒璃が俺の席にやって来た。今までは一緒に住んでいても帰りは別だったが、今日から夏休みまでは一緒に帰る事になるだろう。 「ねぇ涼真、これから詩緒璃の家に行くんだけど、涼真も行こうよ」 「家で勉強しよう」  俺は自宅の鍵を持って来ていないので明日に回すつもりだったが、詩緒璃は鍵を持っているので、登校中に言っていた通り家の手入れに行くらしい。換気には時間がかかるので待ち時間を利用して勉強会を開くようだ。時勢がら単独行動もしにくいし、二人となら勉強もはかどりそうなので、俺は快く二人についていく事にした。  校外に出た瞬間汗が噴き出した。夕方だろうが暑いものは暑い。 「うわっ暑っ。早く行こ」  朝と同じく千恵佳に急かされて俺たちは行く。この灼熱から逃れたいのは皆同じだが、走ると余計暑くなるので歩かざるを得ない。幸いなのは加波家より菜綱家の方が学校からは近いという点だろうか。帰る頃にはもう少し気温も落ち着いているだろう。 「明日は涼真の家の換気しようね」 「そうだな」 「途中でジュースとか買う?暑いけど」 「家に空けてないのがあった筈」 「じゃあ良っか。あ、でもどっち道買い物はしないと。今日食べる物ないよ」 「それは私の家から帰る時にしないと荷物になるよ」 「そうだねぇー。詩緒璃の家に泊まる訳にもいかないしねぇ……」  千恵佳の話したい事をあらかた聞き終えてから、俺は夏休みの計画について二人にお伺いを立てる事にした。 「二人は夏休みの予定とかってなんか決めてるか?」 「私は決めてない」 「私も……だけど……」  ふと千恵佳の声のトーンが下がる。さっきまで胸を張って歩いていたのが急に猫背気味になり、目線も足元に落ちてしまった。 「期末テストで赤点取ったら夏休みに補習が入るでしょ……?そしたら計画とかいくら立てても無駄になっちゃうじゃん……遊ぶとか言ってる場合じゃないよ……」  「また始まった」と思った。千恵佳の成績は悪くない。真面目で予習復習も欠かさないので、むしろかなり良い方だ。少なくとも俺たちの中では間違いなく千恵佳が一番勉強ができる。しかし、千恵佳は試験というものに対する危機感が人のそれよりかなり強いらしかった。なので、俺でも平気で入れる菱高の受験でも、その後の中間テスト、そして今回の期末テストでも、落第点を取る事をある意味病的に懸念しているのである。試験に限らず、千恵佳はふとした拍子に過去の失敗や未来の不安を思い出して落ち込む事が多い。 「いや……千恵佳は大丈夫だろ……俺らの方がやばいぞ……」 「で、予定訊いてどうするの?」  詩緒璃が話題の進行を促す。そうだ、まだ本題にも入れていなかった。テンションの下がった千恵佳の事は一旦放置して話を続ける。 「今日癒雲さんっていう人に夏休みになったら遊びに行かないかって誘われてさ。友達も誘っても良いって言ってくれたから、二人も誘おうと思ってな。他には蘭也が来るのと、理央も来るかもしれない」 「癒雲さんって、二年生の、全教科満点の癒雲さん?」 「そう。その癒雲さん」  癒雲さんは去年の二学期の中間から今まで全教科のテストで満点を取り続けている。賢いというよりもちょっとしたびっくり人間のような扱いで、他に何かやっているという訳でもないが菱高ではそこそこ有名な人だった。 「志賀と八久氏さんも来るんだ。……それで集会の時騒いでた?」 「ま、まぁな……メンバーが悪いか?」 「私は良いと思う」  詩緒璃は来る者は拒まずというところがあるので、あっさりと乗って来た。後は千恵佳だが、話せる状態だろうか。 「んぇー!私も行きたいぃー!」  復活しているのかいないのか、千恵佳が奇声をあげる。行けないと思ってるのはお前だけだぞとは言っても恐らく無駄だろう。 「じゃあテスト勉強頑張ろうな……」 「うん……」  これ以上こちらで進められる話もないので、行く意思だけ確認できればそれで充分である。後の事は癒雲さんが立てているであろう計画を聞いてからだ。まさかノープランで県外と即答した訳でもあるまいし、下手に行き先の希望を考えたりすると摺り合わせに余計な時間がかかるので、丸投げできるところは丸投げするに限る。  数週間放置されていた菜綱家の周囲には背の高い雑草が生い茂りつつあった。自分の家もこうなっているかと思うと若干気が重い。 「草むしりもしないといけないねぇー……」 「そこまでは良い。どうせまた生えるし」  テスト期間中でもあるし、草むしりは時間的にもやってられないといったところだろう。俺も庭の草なんかいくらはびこっていようが放置するつもりだった。  通路にまで侵食している雑草を踏み越えて玄関に到着すると、詩緒璃が鍵を開けるのを待つ。シリンダーに鍵を挿した詩緒璃はにわかに全身を強張らせた。 「開け!」 「そんな気合いる!?」 「錆び付いてるかもしれないから」 「やめろ俺も不安になって来た」  鍵が錆びて玄関が開かないなどという話は聞いた事がないが、いかんせんこんなに長く家を空けた事がないので、可能性があるのかないのかも分からない。ともあれ、詩緒璃の気合のおかげ、という訳でもなく、玄関は普通に開いた。  埃っぽく、熱い空気の塊の中に俺たちは足を踏み入れる。カビが生えたり柱が腐ったりしているという気配はないが、単純に嫌な感じだ。 「うわぁ……窓開けよ」  俺は千恵佳の先導に続いてリビングや廊下の窓をかたっぱしから開放していく。詩緒璃は二階の窓を開けに階段を上って行った。テーブルやテレビなど、あらゆる家具に薄く埃が積もっているのが見える。 「詩緒璃ぃー!掃除機かけて良いぃー!?」  既に掃除機に手をかけながら、千恵佳が声を上げる。 「かけてー!」  返事を聞くや否や、電源を入れ、床の埃を吸い込んでいく。  手持無沙汰になった俺はソファに腰を下ろした。換気が進んで部屋の空気が綺麗になっていくのを感じる。  少しして、二階から降りてきた詩緒璃は千恵佳から掃除機を受け取るとまた二階に上がって行った。 「リビングで勉強しよう。先にやってて」 「うん」  俺と千恵佳はふきんで埃を拭ったテーブルに付いて、ノートや教科書、問題集を取り出す。 「分からないところあったら教えてね」 「ああ」  俺が千恵佳に教えられる事は皆無と言って良い。俺が分かる問題は千恵佳にも分かるし、千恵佳が分からない問題は俺にも分からないのだ。  間もなく戻って来た詩緒璃は冷蔵庫からジュースと氷を持ち出して、俺たちにコップを配った。目の前で注がれるジュースはいかにも冷たそうに冷気の白いもやをあげている。 「ありがとう」  ぐいと煽ると、食道に冷たい液体が通る感覚と同時に、また全身から汗が噴き出した。自分で思っていたよりも喉が渇いていたらしい。夏のピークはまだ先だが、油断するとすぐ熱中症になりかねない暑さだ。 「お茶の方が良かったかも。ちょっと待って」 「悪いな」 「私もお茶ぁー」  再び戻って来た詩緒璃が注いだ茶を三人で喉を鳴らして飲み干すと、三者同じく滝のように汗を流した。  やっと勉強に取り組む体制が整ったところで、詩緒璃は俺の隣の席に付いた。俺と千恵佳が向かい合い、詩緒璃は俺の隣に座る。いつからかこれが俺たちの定位置になっていた。  それから少し問題集を解いていると、あっという間に一時間経っていた。窓を開けるだけだと思っていたが、意外に時間がかかってしまった。きりの良いところまで問題を解いて答え合わせを済ませると、詩緒璃はコップを片付けに席を立つ。俺と千恵佳も帰り支度を始める。この後買い物をして家に帰って食事の準備もしてとやる事が詰まっているので、俺たちは割に忙しいのだった。  家事も済ませて夜になり、風呂からあがると、リビングでは千恵佳と詩緒璃がまた勉強をしていた。これが蘭也たちなら詩緒璃の家での勉強すらまともにやっていないところである。  せっかくなので俺も二人と一緒に勉強させて貰う事にした。千恵佳の前に座ると、千恵佳の横にいた詩緒璃がわざわざ俺の隣に移動してくる。そんなに俺の隣が良いのか、それともはす向かいが嫌なのか、いつか訊こうとは思っているが、今日もまた泳がせる事にした。一つくらいどうでも良い疑問を抱えていた方が人生は楽しい。  千恵佳と詩緒璃が相談する声を聞きながら授業内容の復習をある程度進めたところで、急激な眠気に襲われた。二人の声が子守歌のように聞こえる。今日は睡眠時間が少なかったので仕方ない。それでもなんとかひと段落つけられるところまで終わらせてから、二人に断って席を立った。 「私も寝る」 「私はもうちょっとしてから寝ようかなぁー」  詩緒璃は傍らの通学鞄に勉強道具をしまうと、手ぶらのままリビングを出て行った。対する千恵佳はノート類を開いたまま乱雑に重ね、その上に筆記用具を乗せて盆のように持ちながら詩緒璃の後を追う。 「おやすみ」 「おやすみぃー」 「じゃあな」  背中越しに二人に声をかけつつ、俺は部屋に入ると同時に服を脱ぎ捨てた。煎餅布団に横たわって目を閉じると、眠りに落ちるのはすぐだった。