次の日の千恵佳はベッドから落ちなかった。最近良く見るといっても、連日連夜同じ悪夢にうなされる訳ではないのだ。 「いっっっったぁ!」  代わりに徹夜で勉強して明け方に意識を失ったらしく、机に額を強かに打ち付ける乾いた音と悲鳴を響かせた。  無言で倒れているのではなさそうだし、また変態と間違われても困るので、俺はのそのそと服を着るとのんびりと階段を登っていく。  千恵佳の部屋の前では、既に詩緒璃がしゃがみこんでいた。膝の上に肘を載せて顔を伏せ、しゃがんだまま眠っているような体勢である。俺と同じく、緊急事態でない事は分かっているが、一応様子を見に来ないという訳にもいかなかったのだろう。  俺と詩緒璃がドアの前から声をかけると、千恵佳は自分から部屋を出てきた。 「おあよう……寝落ちしてた……」  眼の下に隈を作り、呂律も回っていない。 「今から徹夜なんかしてたら身体が先にぶっ壊れるぞ……」 「ごめんね……テスト週間ってなると急に落ち着かなくってさぁ……」 「良いから寝ろ。俺らも寝るから」 「うん……ごめんね……おやすみ……」  手を振って部屋に追いやると、千恵佳は素直に背を向けてベッドに向かう。つけっぱなしの電気を消してドアを閉めるのは俺が代わりにしてやった。  二日続けて早い時間に叩き起こされたので、詩緒璃は眠そうというかげんなりとした表情をしていた。鏡を見れば俺も同じ顔をしているだろう。 「服着てる涼真初めて見た……」 「パンツは穿いてるからね……って違う。風呂と寝る時以外は基本着とるわ」  眠くともボケる余裕はあるらしい。俺のツッコミを聞くのもほどほどに、ぼさぼさの髪を撫でつけながらすぐ部屋に引っ込んでいった。  横になる前に少し時間を置いた方が寝付きやすいと思った俺は、先に玄関先の掃除を済ませてしまおうと、二人の邪魔をしないように静かに外へ出た。  街中がまだ寝静まっている時間帯に掃き掃除をしていると、自分がとても勤勉な人間になったような気がしてくる。かすかに白む空を見上げ、湿った空気を肺に取り込むと、心が洗われるようだ。これから二度寝するのだが。  自己肯定感と共に睡眠欲も高まって来たところで、誰もいない筈の道端にじっとこちらを見つめる人影を見つけた。何の事はない。理央である。この時間に一人で突っ立っているとストーカー行為とは関係なく補導されそうだが、俺が心配する事ではないだろう。むしろ一回補導された方が理央の将来にとっては良いかもしれない。それよりあいつはいつもこんな時間から俺の周りをうろついているのだろうか。ストーカーに熱中しすぎて生活リズムが狂っていないかの方が心配になってくる。  俺は理央に気付いている事がばれないように平然と掃除を続ける。昨日の集会は例外として、理央はこちらが理央を認識していない場合には向こうから接触してこないので、認識していないふりをする事によって関わりを避ける事ができるのだ。  俺はその日の気分によって理央への対応を変えている。追い払うために話しかけてみたり、単純に暇つぶしの相手としてみたりするが、基本的には無視だ。毎日相手をするには理央との会話は徒労感が強すぎる。見守るのが目的だそうなので、理央としても本望だろう。  理央をほったらかしにしたまま掃除を終えた俺は、そのまま自室に戻り、再び眠りについた。  途中で起こされはしたものの、十分な睡眠時間を取った俺は同居人たちの生活音で快適な目覚めを迎えた。颯爽と制服を身に着けると部屋を出る。二人の後を待って顔を洗い、台所で食事の用意に加わった。 「おはよう」 「おは……」  千恵佳は未だ半分眠った状態でふらふらしながら葉野菜をちぎっている。二日続けて四時間も寝ていないだろうから無理もない。 「千恵佳、大丈夫か?」 「らい丈夫……すごい眠いだけだから……また起こしてごめんね……」  昨日のように千恵佳ひとりで朝食を用意するほどの気力もないようで、隣では詩緒璃がウインナーに火を通していた。俺も焼けたパンを皿に乗せたり、箸を並べたりする。  三人で手分けした朝食の準備はいつも通り、ものの数分で終わった。メニューも基本は毎日同じで、作業は既に最適化されている。昨日と違うのは、ハムがウインナーに、目玉焼きが固焼きになっているくらいだ。詩緒璃が火を使うとあらゆる料理から中間という焼き加減は消える。  俺たちの間では最近、朝食にオレンジジュースを飲むのが流行っているので、今日も俺と詩緒璃の前にはオレンジジュースが注がれたコップがある。しかし、千恵佳の前にあるのはやたらと濃そうなインスタントコーヒーだった。大量のカフェインで無理やり眠気を覚まさせようという魂胆らしい。身体に悪そうである。  料理中からそうだが、今朝は詩緒璃も落ち着きがなかった。何度も振り返ったり身体を傾けたりしながら何かを探すようにリビングを見渡している。食卓についてからもそんな調子なので、こちらも気になってきた。 「詩緒璃、なんか探してるのか?」 「私の鞄知らない?」 「あっちのテーブルの横にあるだろ」 「あぁ……」  昨夜放置して部屋に戻ったのを忘れていたらしい。詩緒璃もどこか抜けたところがある。  つつがなく食事を終えた俺は食卓に突っ伏して居眠りをする千恵佳と食器を洗う詩緒璃を同時に眺める。明け方に掃除を終わらせているので、残りは優雅なひと時だ。  適当にテレビのチャンネルを回したりしている内に良い時間になってきたので、俺は千恵佳の肩を揺さぶった。寝付くところまではいってなかったのか、千恵佳は怠そうにしながらもすぐに身体を起こした。 「涼真、ハンカチ」 「おっと悪いな」  鞄を手に玄関へ向かおうとした矢先、詩緒璃に呼び止められてハンカチを手渡される。こっちに来てからは千恵佳がいつも出してくれるので忘れていた。 「あと私の鞄」 「おっと悪いな。……それは俺が持ってやった事ないよな?」  俺の返しがお気に召したのか、詩緒璃はにこっと微笑んでから突き出した鞄を引っ込めると、千恵佳にもハンカチを手渡す。受け取る千恵佳もいくらか調子を取り戻しつつあるようだった。  家を出て間もなく判明した事だが、調子を取り戻すというのは微妙に間違っていた。戻って来た筈の千恵佳の調子はそのまま明後日の方向へ飛んで行ってしまったのだ。  千恵佳は加速度的に足を速め、どんどん俺たちの先を歩いて行く。俺と詩緒璃は千恵佳に置いて行かれないようにするので精一杯だった。 「千恵佳速い……」  酷く汗をかきながら詩緒璃は息を切らす。詩緒璃の体力がないというのではなく、千恵佳が速すぎるし、外が暑すぎるのだ。何が悲しくて遅刻寸前でもないのに真夏に競歩などせねばならないのか。 「久しぶりにコーヒー飲んだけどさぁー!めちゃくちゃ効くね!カフェイン最高!」  最高を通り越してサイコじみた目付きをした千恵佳の声は大きい。摂取したのは本当にカフェインだったのか不安になる。いくらなんでも効きすぎではなかろうか。後で副作用に悩まされそうだ。 「でもすごい気持ち悪い!帰りたい!」  副作用は既に出ているらしい。おそらく吐き気か頭痛辺りの症状だろう。両方かもしれない。 「調子悪いんだったら今日は帰って寝た方が良いんじゃないか……」 「嫌だ!……うわぁー!ほんとに気持ち悪い!」  飲んだコーヒーは一杯だけの筈だが、どれだけの濃度ならこんな事になるのだろう。所詮コップ一杯に溶けきる程度なので命に別状はないだろうが、常人の許容量をはるかに超過しているのは間違いない。  こういう日に限って信号は機嫌が良く、暴走する千恵佳は誰にも邪魔される事なく菱高に突っ込んでいった。下手すると事故に遭ってもおかしくない異様な急ぎぶりだったので、これは幸いだったと言える。  水筒に口を付ける暇もなく追いかけた俺たちも軽い脱水症状に陥っていたが、これはもう競歩に参加しようとしまいと夏なのだからと受け入れる他ない。  教室に入るや自分の席に激突するかのように突っ伏した千恵佳は、そのまま速やかに眠り始めた。実際はカフェインが抜けきるまでは寝たくとも眠れない状態だろうが、保健室に行こうが家に帰ろうが副作用からは逃れられないのでどうしようもない。千恵佳の友達たちが心配して声をかけたりしていたが、事情を聞かされたのかすぐ元の雑談に戻っていった。  廊下で立ち止まった詩緒璃はそんな様子を窓越しに見ながらペットボトルの茶を一気飲みする。 「今までで一番大変な登校だった……」  テスト勉強用の問題集が入った鞄はいつもより重いうえ、詩緒璃は俺たち三人の中では身体が小さく、鍛えている訳でもないので、俺が感じているよりはるかに大変だっただろう。 「お疲れ。……あんま一気に飲むなよ」 「ん……」  詩緒璃はペットボトルの蓋を閉めると教室に入っていった。教室に踏み入る直前に、最後の一口を飲み込んだ喉がごくんと大きく動く。 「……もうちょっと待った方が良いかしらぁ?」 「大丈夫だろう」 「おはようございます癒雲さん」  振り返りながら、背後から聞こえる話し声に向かって挨拶をする。癒雲さんと蘭也だった。二人が廊下で話し込んでいるのは気付いていたが、挨拶どころではなかったので後回しにしていたのだ。それにしてもこの二人だけで一緒にいるのは珍しい。癒雲さんが一年生の階にいるのも初めて見た。 「おはよぉ。早めに来てくれて嬉しいわぁ」  口ぶりから察するに、どうやら俺を待っていたらしい。夏休みについての話だなと直感的に理解できた。 「遊びに行く話の続きだけどぉ、放課後時間あるかしらぁ?」  テスト期間というだけでメンタルもろとも全てがボロボロになる千恵佳と違い、全教科満点の癒雲さんの余裕といったらない。遊びの計画を立てるのに夢中といった態度だ。これが勉強に勉強を重ねてテストに臨む秀才とびっくり人間の差なのか。 「あー……今日はテスト対策の勉強会をやる予定なんですよ。千恵佳と詩緒璃と」  癒雲さんが二人の名前を知っているかは分からないが、存在は知っているようなので伝わるだろう。  千恵佳ほど追い詰められてもいないが、俺にも遊べるほどの余裕はない。むしろ、俺のような人間はテスト期間中の勉強量が成績に直結するので、現実としてはかなりカツカツだ。心は遊びたがっているが、それを抑え込まなければ待っているのは補習あるのみである。  癒雲さんは一瞬残念そうな顔をするが、すぐに切り替えて第二案を提示してくる。 「そぉ……じゃあ、私もついて行っても良いかしらぁ?」 「癒雲さんが俺たちと勉強するんですか?」 「私、自分の勉強はするつもりないわよぉ。でも、分からないところは全部教えてあげるし、私がいた方が柄川君たちの勉強捗ると思うけどなぁ」 「俺は良いですけど、二人にも訊いてみないと……」  真っ向から断る理由が思いつかず、俺は二人を盾にして言葉を濁す。  正直、テスト期間中に癒雲さんと行動を共にする事に俺は危機感を抱いていた。癒雲さんはあまりにも俺たち寄りの人間すぎる。つまり、俺や蘭也やジョーや三山と同じタイプなのだ。片や不真面目、片や天才という隔たりはあれど、俺たちは勉強する気がなさすぎる。一緒になって遊んでしまえば中間テストの二の舞だ。 「じゃあ二人にも訊いてみてくれるぅ?夏休みの前に顔も合わせておきたいしねぇ。放課後に迎えに行くからぁ、教室で待っててねぇ」  とはいえ、癒雲さんがいると勉強にならないというのは俺の完全な偏見である。生徒としての優れた才覚を家庭教師としても発揮してくれる可能性は大いにあるのだ。隙を見て遊ぶ話をしたいのは見え見えだったが、味方にできるならこんなに頼もしい相手もいない。癒雲さんの去年一学期の成績は聞いた事がないが、まさかそこだけ壊滅的という事もないだろう。  言い終わる前に身を翻して自分の教室に戻っていく癒雲さんを見送りながら「すごく教え上手な癒雲さん」への漠然としたイメージを思い描いていると、どこか困惑した様子の蘭也に声をかけられた。 「俺も放課後に癒雲さんに誘われていたんだが、この場合、俺はどうなるんだ……?」 「え……全然分からん……訊けば良かったのに……」 「タイミングを逃してな……」  昨日は俺が癒雲さんに遊びの予定をいつ立てるのか訊きそびれていたので、蘭也を責める事はできない。  今まではその場限りの雑談しかした事がなかったので気付かなかったが、癒雲さんは話が終わったと見做すとすぐいなくなってしまうので、訊かないといけない事がこちらに残っている場合、若干困った事になる。多少強引にでも音頭を取ってくれる人がいるありがたさの代償とでもいったところか。 「というかお前、癒雲さんと一緒で勉強できるのか?」 「やっぱそうだよな……そう思うよな……」  何とか前向きに自分を騙そうとしていたが、蘭也の一言で雲行きの怪しさを再認識する。癒雲さんが頼れる家庭教師となってくれるのは、あくまで味方にできた場合だけなのだ。  千恵佳辺りが角を立てずに断る口実になってくれないかなぁなどと思いながら、「ちょっと待って」の一言が遅れたばかりに、夏休みの前に放課後の予定すらおぼつかない俺たちだった。