森のイルカと菜食主義者 23:46 2020/10/23  木々の緑が異様に鮮やかに眼に刺さる。風の音が割れるように頭に響く。木漏れ日の揺らめきが煩わしく、湿気た土の臭いが吐き気を誘う。  研ぎ澄まされた感覚が探しているのは、死んでも良い者だ。私が願うのは、それが既に死んでいる事だ。  水と空気以外の物が最後にこの喉を通ったのはいつだっただろう。人知の内側にいる生物であればおおよそ生きていられるとは思えない程の時間が経過しても、私の身体は餓死には至らず、この森をさまよっていた。  人外の身体は無尽蔵に再生を続ける。無から有を生み出し、私の中を駆け巡り、栄養失調で崩壊する身体を強制的に死の一線の真上に吊り下げたままにする。暴走する術と感覚は狂気だ。  ふらついた身体がたたらを踏んで、足元を這う虫を潰した。どれだけ気を張っていても、この程度の事が避けられない。  ばきりと外骨格が割れ、脆い肉が崩れ、体液もろとも延びる感触が靴底から伝わる。私は咄嗟に足を上げる事も出来ず、その場に立ちすくんだ。  そのまましばらく俯いて足を眺めていると、何かの気配がした。獣ではないが人間でもない。人外だ。においはしないが気配を消そうともしていない、生きている石のような何者かは、緩慢に、しかしまっすぐにこちらに向かっていた。  少女を模した人外が私の視界に現れた。身に纏っているのは忌色の巫女服──つまり、宗教者の正式な装束とは違う何か──だ。背中まで垂らした黒髪は前髪の端が紫色に染まっている。  人外の性質は元々人間ほど分かりやすい方向性を持って統一されてはいない。しかし、このような姿を採る者は特に独自性の強い価値観と思考回路を持っており、それに固執する傾向がある。その事を私は実感を伴って知っていた。 「やぁー、この辺りに人外がおるとは思わなんだのですが、会う時には会うもんですな」  私の警戒心を感じないのか、人外は軽薄そうな態度で声をあげながらも歩みを止めようとはしない。言葉遣いの不格好さが却ってわざとらしく、作り物じみていて不気味だった。 「私は木更木と申します」  お互いの間合いのぎりぎりまで近付いてからようやく立ち止まると、人外は小さく会釈した。 「私の名前は、更木更……」  私は反射的に名乗っていた。思えば自分の名前を口にするのは初めてだった。自分の声が酷く震えているのが何故か俯瞰的に感じられた。  木更木は私の全身を下から順に眺めると、再び私の足元に目を落とした。大きな袖口を片手で抑えながら、人差し指で私の足を指す。 「足元に何かがおありのようだが、お尋ねしても宜しいですか?」 「虫を……虫を踏んで……」  声の震えが更に酷くなる。私は自分の足が動かないように意識を集中させていた。足を上げれば死骸を見せびらかす事になり、意味もなく動けば死骸を踏みにじる事になるからだった。靴を脱いで全てをそのままにして逃げ出してしまいたかった。 「それで泣きそうになっておられるのですね」 「え……」  木更木はあっさりと私の間合いに踏み込んで跪くと、私の足に両手を添えて恭しく持ち上げた。私は親しい者に抱えられるように、あるいはこれから蛇に呑まれる鼠のようにおとなしくしていた。  木更木は虫を踏んだままだった私の靴の下に片手を差し入れると、何かを拾い上げて足を離す。立ち上がると、握った手を口元に当ててその何かを口に入れた。私が踏み潰した虫の死骸を食べたのだ。 「頂く為に殺すのも罪は罪だが、ただ殺すのよりは罪が軽く、それが他者への施しの為ならば更に軽い。……同意して頂けますか?」  木更木は自分が虫を食べる事で私の罪が軽くなったと言っているのだ。私が虫を殺したのは私の過失ではなく、後から現れるこの同種への施しの為だったという事にしようとしているのだ。それは詭弁にもなっていなかった。 「罪に重い軽いはない。奪った命への償いは、どうやっても……」 「そですかぁ……いや、残念ですの。人は多くこのような理由付けに由って己の罪過の軽重を操作しておるものと理解していたのですが……ま、更木更さんは人外ですので、人間の価値観とは無縁でしたかな」  私は目の前の人外が「呪われている」と思った。夥しい淀みと狂気を纏っている者の口ぶりだ。ありとあらゆるものを自らの為に害し、それに喜びを見出す者の言葉だった。  木更木の言動に度肝を抜かれたからなのか、本当に私の罪も木更木が食べてしまったと思ったのか、単に死骸を見ずに済んだからなのか、私の感情は幾分か平静を取り戻しつつあった。  そこで私は初めて木更木の言う通り、自分が泣きそうになっていたのだという事に気付いた。私に殺された虫が哀れで、虫を殺した自分が憎くて、何より、そうまで思うのに殺さないというだけの事も満足に果たせないのが堪らなくて、私は自分の感情も分からなくなるほど取り乱していたのだ。  それが分かると私は急に立っているのも億劫になって、傍らの木の根に腰を下してしまった。私に吸い寄せられるように木更木も傍らに寄り添う。 「随分と体調が優れないようですの。人外にしては珍しい、と申し上げて良いものかは分かりませんが。何か心当たりが?」  私の顔色を窺おうとする木更木がどんな表情をしているのか、私は見返そうとも思わなかった。 「何も食べてないから……」  空腹を思い出すとまた感覚が鋭敏になっていくのを感じる。風が吹くたびに木の葉が触れ合う轟音が降り注ぎ、耳をつんざくので、私は自分の耳を塞いだ。ただ歩くだけでも殺すなら、私は何の為にこれに耐えているのか。  耳を塞いでも木更木の声は普通に聞こえた。いつの間にか木更木は囁く程に声量を落としていて、私が耳を塞げばその分だけ声を戻しているのだ。 「ふーむ。では、早急に何か召し上がるのが宜しい。人外はあまり物を頂かずとも良いようになっておる者も多いが、更木更さんはそうではないようです由って」 「食べられるなら私だって食べたいよ……」  声に涙が混じる。伏せた目に映るあらゆる物が入り混じった土は微に入り細を穿ちグロテスクだ。  木更木はしばらく黙っていたかと思うと、意を決したように丸めていた背を伸ばした。 「私が良いと言えば更木更さんは私を召し上がりますか?」 「何……?」  咄嗟に首をもたげたが、木更木の顔は見切れて視界に入って来なかった。木更木が何を言いたいのか、意味を理解しようとするのも嫌だった。  少しだらしなく開いた胸元から覗く木更木の肌は滑らかで、その下に流れる血と肉は美味そうに見える。人外の肉はさして美味くも不味くもないが、それが人間を模しているのなら、どうしようもなく美味そうに見えるのだ。 「私が食べても良いと申し上げれば、更木更さんは私の血や肉や骨を食べますか?」  私は自分が冷静になっていると思っていたが、それはほんの僅かな間の事だった。 「わ、分からない……どうしてそんな事を訊くのか……」 「ならば申し上げましょう。良いですよ」  木更木は袖を捲って左の手首を露出させると、右手の人差し指と中指を押し当てた。指が皮膚を突き破って手首に食い込むと、そのまま肘に向かって縦に腕を裂いていく。当然のように血が溢れ出し、鉄の匂いが私の鼻腔を満たした。 「どうぞお飲みください」  木更木はにこりと微笑むと血の滴る手首を私の前に差し出す。私は目の奥が締め付けられるような、脳が揉まれるような不安定な気分に襲われていた。 「さぁ。私が良いと言っているものを飲まぬ道理がまだありますか?あなたが飲まずとも私の血は流れるままだ」  私は何も言わず、木更木の手首に口を付け、傷口から血を啜った。 「なんと哀れな形質かと思います。後に遺らぬであろうという意味においてもね」  私は夢中で木更木の血を飲んだ。随分時間が経ったと思ってもまだ口を離さなかった。胃の中が木更木の血で満ちるまで、延々と血を吸い続けた。  ふと木更木が私の頭を撫でて、それが終わりの合図かと思って口を離そうとしたが、木更木は「構いませんよ。あなたが「もう結構」と思うまでお飲みなさい」と言った。私の腹は満ち、木更木の血はもう止まっていたが、私はいつまでもその傷口を舐めていた。  私が木更木の膝に頭を預けて横になっている間、木更木は一人で延々と犬の血統の話をしていた。  曰く、飼いやすい犬とは、飼いやすい性格になるように恣意的に掛け合わされた種であり、そこに犬自身や後からそれを飼う人間の意思は介在しないのだという。そして、人間や人外の性質もそれぞれが生まれる前から予め決まっていて、たとえそれが都合の悪いものだったとしても、自分では変える事は出来ないのだと続けた。つまり、運命とは遺伝子であり、遺伝子が存在する以上は運命も存在しているのだ。  私は木更木が言っている事が正しいとは思わなかった。ただ、全てが間違っているとも思わなかった。  喉の奥から立ち上る血の匂いがまだ私の口腔に漂っていた。 「これからも私の血を飲み、必要ならば肉も食い、そうして生きて行ければ良いと思いますか?」  寝返りを打って仰向けになると、私の顔にかかった前髪を木更木の細い指が整えた。  私は木更木の見せる未来を夢想する。木更木はこの呪いそのものの世界で私を助けてくれる存在なのかも知れなかった。  違う。私は更にこの夢が破れる空想をする。私が期待しているのは…… 「いずれね。いずれ。今ではありませんよ。あなたはまだ私を楽しませてくださる筈です」  イルカの鳴き声が森に響いた。聞いた事などない筈なのに、私はその笑い声がイルカの鳴き声に似ているのだと分かった。何者かが私達に植え付けているのだ。獣が知る筈のない知識を、感覚を、罪悪を。木更木はそれを「与えられた物」と言うだろう。  私は私を人外たらしめているものを憎んでいる。罪悪を認識する知能を憎んでいる。木更木の笑い声はその象徴のように聞こえた。私が無知な獣のままだったなら、私は海に棲む者の声も、己の罪悪も、その存在を知る事すらなく生きて、そして望むまでもなく死んだだろう。 「心を読めるのね」 「はい、と申し上げておきましょうかね。正しくは『記憶』ですがぁ」  心が現在なら、記憶は過去だ。木更木は今会ったばかりの私の事を「知っている」と言う。それが木更木という人外が身に着けている超常の術なのだ。  木更木は目を細めて、聴く者を柔らかく包み込むような声で続ける。 「あなたの感じている事は私には分かりません。ですが、あなたの感じていた事は私にも良ぉく分かっております。ただ生きるというだけの事が、どうにもならぬほどにつらく、苦しく、悲しいのだと」  木更木は術で写し取った私の記憶を後追いしてそのまま読みあげているだけに過ぎず、その心が私に寄り添っているのではないという事は私にも分かる。ただ、事実として、木更木は私が想っている事を私の代わりに口にしていた。聞いてくれる者が誰もいないから、誰に話しても仕方のない事だから、誰にも言えないでいた事を、私の代わりに言葉にしてくれているのだ。  私は生まれて初めて縋れるものを見つけたと思った。人外が生きる上では必要のないものだ。 「その『いずれ』が来れば、全ては私の望んだとおりになるの?」 「そうですね。そうです。少なくとも私にはそのようにする能力があります。対して、そのようにしない理由はありません。違いますか?」  私は既に捕らわれの身だ。放牧されている家畜の身分だ。柵は見えないが、結末は決まっている。 「違わない……と、思う」 「ならば宜しい」  私はこれから私の全てを語る。目の前の悪魔が「もう結構」と言ってこの命を奪ってくれるまで。