生殖の決戦場 5868文字 20:04 2021/06/13 -1.-  ユーザは距離が近い。  詩子がそう感じるようになったのは比較的最近の事だ。最初は誰に対してもそうなのかと思っていたが、真一郎や他のメイドへの態度を見ている内に、それが自分に対してだけだという事が分かってきた。  そして、その距離感に、慣れた友人への無遠慮さというよりも、ともすれば身体に触れたいというような、性欲の存在を感じるのである。  自意識過剰な自分の妄想だと断ずる一方で、優しさの裏に隠れているのは下心かもしれないと考えるようになったが、不思議と不快ではなかった。そもそも自身に関わりがあるという現実感もなかったかもしれない。  それがいつ頃からなのか、はっきりした事は分からない。何度目かのオフ会をした頃にはまだそうではなかったような気がする。「無生殖の墓場」の暴露はきっかけの説明として使いやすいが、確かではない。  始めは「エロゲが好き」という共通点で繋がった同性の友人でしかなかったユーザに仮に求められたとして、その時自分は何と答えるだろう。詩子はふとそんな事を考えた。  珍しく真一郎が同席していない二人きりのオフ会の最中、詩子は車椅子から落ちた。  落ちたといっても、テーブルの上の物を取ろうと手を伸ばした拍子に体勢が崩れてずり落ちたという程度で、事故とも呼べないような出来事だったが、下半身の能動的な機能が完全に失われている詩子にとって、上半身の筋力のみを活用して不安定な車椅子の上へ復帰するというのは、未だに慣れない困難である。 「大丈夫?」 「え、ええ……」  ユーザは詩子が車椅子から落ちながら悪あがきに荒らしたテーブルの上を片付けながら詩子の悪戦苦闘を見守っていたが、いつまで経っても詩子が車椅子を登れないのを見かねて声をかけた。 「手伝っても良い?」 「……お願いします」  ユーザは遠慮がちに詩子の腕の下に手を入れ、腋を掴む。しかし、いくら力を込めてもユーザの腕力だけでは詩子の体重を支えるには至らない。 「抱き抱えて貰わないと、持ちあがらないと思うわ」 「そうかぁ……」  嫌悪ではなく羞恥から、ユーザは詩子を抱くのを渋った。他人に抱き抱えられるなど、詩子にとってはこの五年で幾度となく繰り返された行為だが、ユーザにとってはそうではない。  とはいえ避けようもなく、間もなくユーザは詩子の背に、詩子はユーザの首に腕を回す。 「せーの!」  意味のない掛け声と共に身体が浮き、一人の苦労が嘘のように、あっけなく詩子は車椅子の上に戻っていた。  詩子が肘置きに手を突いて姿勢を直すのを見届けてから、ユーザも自身の席に戻る。 「ありがとう」 「……どういたしまして」  一つ深い息をついて落ち着いたところで、詩子はユーザのぼんやりと上気した視線に気付いた。  ユーザは自身の胸に手を当てる。抱き抱えた時に感じた詩子の身体の熱や、押し潰された胸の感触が残っているのだ。その感覚は詩子の胸にも残っていたが、同性の介助の為にほんの一瞬触れただけというにはあまりに過敏な反応と見えた。 「ユーザちゃん」 「ん? な、何?」  我に返ったように動揺するユーザに対して詩子は冷静そのものだった。この後口にするつもりの言葉で何もかもが変わってしまうかもしれないと分かっていながら、自分には関わりのない事のように俯瞰的に捉えていた。 「私を抱えた時どう思った?」 「どうって……? ……普通、かな? ……別に、普通……」 「そんなに顔が赤いのに?」 「いや……」  ユーザは自身の頬を冷ますように掌で何度も叩く。そうしている内にユーザの肌は却って耳まで朱に染まってきた。その様子はユーザが詩子に対して友情とは別種の感情を抱いているのだという確信を詩子に与えるには十分だった。 「ユーザちゃんは、私に触りたいって思う?」  冗談ではごまかしがたい段になってから、ようやく詩子の心中に僅かばかりの後悔の念が湧いた。何も知らないふりをしていても問題はなかったのに、好奇心か何かの誘惑に負けて、詩子は今、親しい友を失うリスクを冒しているのだ。捉えようによっては友情は既に失われていたとも言えるが、それを暴こうとする必要はあっただろうか。  ユーザは詩子の言葉の真意を探るようにしばらく黙っていた。動揺も消えて、真剣さが表れてきた。 「……思う、かな。良く分からないけど」  自身の言葉を噛み締めるような慎重さでユーザは口を開いた。  この期に及んで逃げ道を用意するような曖昧な返答は卑怯だと詩子は思ったが、すぐに、ユーザとはそういう人間なのだと思い直した。「そうかもしれないけどそうでもないかもしれない」。それがユーザにとって最大限に誠意のある言葉であり、全てなのだ。 「なら、触っても良いわよ。……胸も。良く見てるし」  詩子は自身の胸に手を載せ、視線を落とす。ユーザも釣られて詩子の胸を見た。  ユーザは息を呑んだ。全く想定もしていなかった事態が突然に起こって思考が追いついていなかった。願ってもない申し出ではあるが、性質の悪い冗談のように聞こえてならなかった。そして、触れたいと思うのと、実際に触れるのとでは、後に退けないほどの大きな隔たりがある。それもまた、ユーザの思考を鈍らせた。  「取返しがつかない」という事はユーザが忌み嫌うものの一つだ。大きな変化を避け、後からどうとでも言い訳が利くような判断を好んできた。しかし、今日ユーザが詩子の部屋を訪れるよりも遥か以前から、二人の友情の変質は決まっていただろう。  またしばらく間をおいてから、ユーザは絞り出すように口を開く。 「……じゃあ……抱き締めても良い?」 「……抱き締めるだけなの?」  胸に触れても良いと言われて、ただの抱擁を望む人間がいるだろうか。それともこれは遠回しな拒絶か。詩子には判断材料に足る経験がない。 「……触るよりは、抱き締める方がしたいかな」 「それなら、良いわ。……どうぞ」  「良い」と言っても、詩子から何かをする訳ではない。ユーザが席を立って再び詩子の背に腕を回し、その身体を抱き締めるのをただじっと受け入れただけだった。  ユーザは詩子の首筋に顔を埋め、深く息を吸った。何の備えもしていなかった詩子は咄嗟に「しまった」と思ったが、今更身だしなみを整える暇はない。  詩子は密着したユーザの胸から突き上げるような心臓の鼓動を感じた。  詩子の耳元で、深く荒い、吹くような吐息の音が聞こえた。抱き締められている詩子にユーザの顔は見えないが、ユーザが性的に興奮しているのだという事は分かる。「抱き締める方がしたい」というのは言葉通りの意味だったのだなと思いながら、詩子はユーザの背に伸ばしかけた手を自身の膝の上で遊ばせていた。  これまで性に置き去りにされてきた詩子にとって、自分が感じているものが性的な快感と呼ぶべきものなのかは分からない。ただ、人の身体の温もりと柔らかさを感じて、これが愛されているという事なのかと、相変わらず現実感のないまま、どこか他人事のように、夢想するように感じていた。  詩子を抱いていた腕の力が弱まると、ユーザは詩子の顔色を窺うように一度その身体を離した。両の手だけが名残惜しそうに詩子の腕に添えられている。 「……キスはしても良い?」  奥手だと思っていたユーザの意外な問いに、詩子は頷いて答えた。  いよいよ友情の範囲を逸脱し始めたなと考えながら、詩子は自身の唇に触れるユーザを感じる。まさに「口を付けているだけ」としか言いようがないような幼稚な口付けは拍子抜けだったが、心の準備を必要としない分だけ気楽でもあった。  挿れる物もないのなら、同性同士は始めから無生殖が前提だ。それなら詩子の下半身はあってもなくても変わらない。事故に遭っていてもいなくても同じ事だ。  ユーザは詩子を置き去りにしない。詩子は天啓のようにそう感じた。  ユーザが良いと言ってくれるなら、詩子もそれで良いのだ。誰かが詩子を肯定してくれるなら、詩子もまた、自分自身を肯定する事が出来るのだ。人間の世界に存在する自分自身を観測し、自分自身にその価値を証明する事が出来るのだ。  無生殖の墓場の供物たちが描くような物とは違うかもしれない。しかし詩子には性があり、今、詩子にはセックスが出来たのだ。  幼稚さの代わりに長いキスが、詩子には永遠に続くように思えた。 -2.生殖の決戦場- 「前、エロゲとか置いてある部屋を見せてくれたよね」  どこか過剰に砕けたような調子でユーザが言った。未だに興奮が冷めないのか、目には異様な輝きを湛えている。 「あの時、この部屋は詩子ちゃんの心を表してるんだって思った。……無生殖の墓場……って言って、伝わる……?」 「ええ」  ユーザの言いたい事は当然の如く伝わった。詩子もあれをそう呼んでいるのだ。  詩子はユーザが自身の心を自身と同じように呼んでくれた事が嬉しかった。「心が通じ合っている」と、月並みな文句が思い浮かぶほどだった。  何の為にしたのか分からない口付けや抱擁がユーザのこの言葉を引き出したのなら、やはりセックスは必要だ。「セックスだけが全てではない」などというのは、耳ざわりが良いだけのまやかしだ。性が無い者は誰とも通じ合う事は出来ないのだ。  自らの中に性を取り戻した詩子は、性がなかった頃の自分を、小躍りしたいような気持ちで見くだしていた。 「あの時言おうと思って言わなかったけど、私、セックスに何か価値があるって思わないんだよね。した事はないけど、したいと思った事もない。……セックスって、なんか、気持ち悪いし、空しいし、馬鹿馬鹿しいよ」  歓喜に震え、笑みすら浮かべていた詩子は一瞬、ユーザの言葉を理解するのに時間を要した。詩子が無生殖の墓場を形成する程に渇望してやまないセックスを、性を、ユーザは無価値だと言うのだ。そんな事を言える人間がいるのか。 「お互いが相手を労わって、相手を気持ち良くして、相手に気持ち良くして貰って、愛を確かめ合って、育んで、そのために身体を重ねる……セックスって、人と人とのコミュニケーションの極致だと思うんだよね。そんなの、気持ち悪いよ。考えただけで寒気がする」  詩子の心を知ってか知らずか、ユーザは苦々しく吐き捨てる。言葉を続ける内に、語気には憎悪すら宿り始めた。しかも、その様子は今突然思い付いた出任せを口にしているのとは違う。これまで幾度となく反芻した、常々苛まれている邪気の発露と詩子には見えた。 「外に出て、人と関わると、結婚はしてるのか、恋人はいるのか、子供は何歳で生みたいか……色んな人に訊かれるよ。あらゆる人って言っても良い。本当に馬鹿馬鹿しい。そんな話、聞く事すら時間と気力の無駄としか思えない」  ユーザは世の中の誰もが持っている性を「気持ち悪くて空しくて馬鹿馬鹿しい」と繰り返す。ならば、その無価値な性すら持たない者は何だというのか。詩子は再び自らの性の存在が失われていくように感じた。 「じゃあ性を捨てれば良いって思うけど、それも出来ない。私には本能があって、性欲がある。自分が可愛い。意志が弱くて、自分ではそれらを制御できない。今持ってる物がたとえ要らなくても、自分では捨てられないんだ」  詩子は、自身が失った性を取り戻したか、あるいは新しく探し当てたと思っていた。しかし、ユーザに言わせればそれは違っていたのだ。 「だから、私は詩子ちゃんが羨ましかったんだよね。自分が性と無関係になったと思えるのが羨ましかった。それが実際にどうかは知らないけどね。今はどうかな。詩子ちゃんは私に触られて興奮した? 気持ち良かった? そうじゃなかったら私は嬉しい」  ユーザの語気に含まれていた憎悪はなりを潜め、詩子への親しみが戻って来た。瞳は潤み、口角は上がりかけている。代わりに顔色は酷く、今にも倒れそうなほどに青ざめていた。  ユーザは詩子に性欲を感じ、劣情を催した。詩子の身体に触れ、キスをし、性感を得ただろう。しかし、詩子はそうではない。「詩子」と「ユーザ」という登場人物が織りなす情事の物語を、一人でパソコンに向かう時と同じように俯瞰的に眺めていただけだ。ゲームの文字を追うのと違う点があるとするならば、それが自らの中の性の存在を証明するに足るかを値踏みしていたという事だけだ。だが、詩子はユーザに触れられる事で、自らがセックスをする事が出来ないという事を改めて証明してしまったのである。  詩子は全身から血の気が引くような想いだった。  ユーザが部屋を出て行ってしばらくしてから、「そういえば」と詩子は思った。ユーザから感じるようになった距離の近さの正体が判然としないままだったのである。単純に考えればそこには恋愛感情があって然るべきだろうが、ユーザはあえて自身に性欲があると言った。その性欲に従って詩子の身体に惹かれていただけなのかもしれない。あるいは、ユーザは詩子が性を持たない事を証明したかったのだろうか。性を持たない詩子がユーザの性欲を満たす事がユーザにとって必要だったのだろうか。  「セックスは気持ち悪い」とユーザは言った。それなら恋愛はどうだろうか。ユーザにとっては恋愛もまた、吐き気を催すだけの気持ちの悪い存在だろうか。  「詩子ちゃん、好きだよ。愛してる」とユーザに言われたとして、その言葉には何の重みもないだろう。犬が好きだとか、花が好きだとか、それらと何ら変わりない「好き」は詩子が望む物ではない。  成されるがままぬいぐるみのように抱かれる詩子の視界の外で、ユーザはどのような顔をしていただろう。詩子の性が否定される事を望むユーザの姿を思い返して、あれが詩子の望む性を持つ人間の姿かと思いながら、確かに詩子には出来ない表情だった。  恋人、家庭、自己の価値、正常である事の証明……、全てを手に入れるか、さもなくば無か。望むと望まざるとに関わらず、そこに立つ事を強いられる。無生殖の墓場から一歩外に出れば、そこに広がるのは生殖の決戦場だ。  ユーザは詩子を置き去りにしない。ただ始めから歩きたくもないだけだ。詩子をどこかへ連れて行きもしない。ただ二人共が置き去りにされているだけなのだ。  それを理解して、詩子は何も思わなかった。どうにかしようとしてどうにかなる事でもない。やはり自分には関わりのない事のようであった。  立ち去る直前、ユーザは立ち上がって、詩子を見下ろしながら言った。 「詩子ちゃんは夢の国に住むお姫様だよ。私にとってはね。私とは違う世界にいられて羨ましいな。私は最低だ」  「そんなものになりたくない」と詩子がどれだけ言おうと思ったか知れない。しかし、それを言うには詩子はあまりにも疲弊していた。