甘く、暗く、這うような温さで。 2023/01/12 2023/12/23 -A-  あらゆるものがぼやけて見える。いつでも景色は涙で滲んでいるようだ。  生まれつき弱視を患っているアウローラは物のディティールを読み取ることができない。そもそも物体に「読み取れるディティール」なるものが存在することすら、実感を伴わない知識として知っているだけだ。人の顔を見ても表情が分からない。表情が分からなければ、その下にある感情はなお分からない。  拒絶の言葉を聞くまで拒絶されていることにも気付けないほど、アウローラには人の心が見えなかった。  がぽ、と湿った音に続いて、アウローラの鼻腔に甘い香りが漂ってきた。  ルームメイトのヴィルジニアは愛用のハンドクリームを毎晩の風呂上りに己の手に塗り込むのを習慣にしている。いつ頃からか、アウローラもヴィルジニアとハンドクリームを共用しており、それは嗅ぎなれた香りだった。  アウローラはヴィルジニアが好きだった。用がなくても腕を組んで歩きたいし、抱き締めて欲しい。ヴィルジニアが許すなら同じベッドで眠りたいとさえ思った。学園では禁じられている。 「ボクにも塗ってくれないかい?」  アウローラは机の前に立っているであろうヴィルジニアに向けて両手を差し出した。 「……私はあなたのお世話をする妖精さんではないのだけど?」  クリームの蓋が閉じられて、ヴィルジニアの声が遠ざかる。  避けるように自身のベッドに腰を降ろしたヴィルジニアとアウローラの間には容易に詰めがたい距離があった。 「見えない小雨を代わりに見て、あなたに天気を教えてあげるくらいは良いわ。目覚まし時計で起きられないあなたの二つ目の目覚ましになってあげるのも、まぁ、別に良いわ。でも、だからといって何もかもを私が代わりにしてあげると思わないで頂戴」 「ボクは……」  アウローラが二の句を継げないでいると、ヴィルジニアは小さくため息をついて立ち上がった。電灯のスイッチに手をかける。 「……今日はもう寝ましょう。消すわよ」  明かりが消えたのはありがたかった。  眠れないまま数刻は経っただろうか。アウローラはベッドから這い出ると、息を殺して数歩、ヴィルジニアの枕元に手をつく。  床に膝をついて顔を寄せると、ヴィルジニアの寝息が聞こえた。ともすれば自分にすら聞こえないほどの声量で、アウローラは意識のないヴィルジニアに囁く。  普段ヴィルジニアが世話を焼いてくれるおかげで自分がどれだけ助かっているか、毎朝ヴィルジニアが起こしてくれることに自分がどれだけの幸福を感じるか、何故ヴィルジニアにハンドクリームを塗って欲しいと言うのか、自分がどれだけヴィルジニアのことが好きなのか。  ヴィルジニアが目覚めている時に言った方が良いのだろうか。ヴィルジニアは最後まで聞いてくれるだろうか。  何か理由があるわけではない。ただ何となく、アウローラは正面からの告白を避け、ヴィルジニアの返答を聞かなくても済むようにしていた。アウローラは永遠にそれで良かったのだ。 「…………アウローラさん、そういう事はやめてくださる?」  いつ目が覚めたのか、眠りを妨げられた者の声とは思えないほど、そして、自分に向けられた愛の独白を聞いた者の声とも思えないほど、淡々と、ヴィルジニアはアウローラを拒絶した。  聞かせるつもりのない告白を聞かれて、アウローラはやっと、自身が買ったであろう想い人からの不興に血の気を引かせた。  アウローラがヴィルジニアを好きでも、それでヴィルジニアもアウローラを同じように好きになるわけではないのだ。  全身を硬直させたアウローラの頭上から、身体を起こしたヴィルジニアの声が降る。 「私たち、来年は別々の部屋にして貰いましょう。……もっと早く言っておけば良かったわね」  闇の中で最期通告を受けてから、アウローラはどうやって次の朝を迎えたか記憶していない。 -B-  放課後になり、教室を出ると、アウローラはユーザと手を繋いで部屋まで戻る。実際には必要のないことだが、段差を言い訳にして腕を組む。部屋につけば手は離れるが、それからも何かと理由をつけてはお互いに触れあってばかりいる。  浴場から帰ってきたアウローラはベッドに腰を降ろすと傍らに白杖を立てかけ、靴を脱いだ脚を投げ出した。 「ユーザ、脚を揉んでくれないかい?」 「良いよ」  ユーザの手がアウローラの足首を拾い、膝の上にその細い脚を抱いた。それからふくらはぎを絞るように揉む。  どこの国の話だったか、目の不自由な者は按摩を生業にすることが多いとアウローラは聞いたことがあった。全盲とまではいかないものの、物の輪郭すら見分けられない自分は将来何者になれるだろう。  心地良い圧迫感が細い脚を往復するのを感じながら、アウローラは自分に按摩は向いていないだろうと思った。客商売よりは物書きか何かの方が良い。アウローラは尽くすよりも尽くされる方が好きなのだ。隠すべき形質とは思うが、こればかりは性分だろう。 「君がボクの世話を焼いてくれるおかげでボクが毎日どれだけ助かっているか知れないよ」 「私はオーロラ姫のお世話妖精だからね」  オーロラ姫は童話を基にしたアニメーション映画の主人公の名だ。アウローラは見たことがない。  アウローラを抱いて眠るユーザの腕の力が完全に抜けた。寝返りを打つユーザを追うように、今度はアウローラがユーザに縋って耳元に顔を寄せる。ここからはアウローラの時間だ。  眠っている相手に煩わしい程の好意を囁いてしまうのは自身の悪癖だ。それを自覚しながらもアウローラの口を突いて出る言葉は止まらない。 「アウローラ……眠れないよ……」  アウローラは咄嗟にユーザの頬に添えていた手を引っ込めた。 「……起こしてごめん」 「いや……」言いかけて、ユーザは小さくむせた。「空気が乾燥してる」  ユーザが半身を起こすと、布団の隙間から入り込んだ外気がアウローラの身体を冷やした。  ユーザはアウローラに布団を掛けなおし、闇の中で不器用にアウローラの髪を撫でる。まだ寒い。 「はぁ……冬は特に乾燥するのが困るよね……」  夜目が利くのか、ユーザは布団を乱さないようにベッドから抜け出すと、明かりもつけずに水差しの水をコップに移して一息で飲み干した。机の引き出しからハンドクリームのケースを取り出して蓋を捻る。  がぽ、と湿った音を立てて開いたケースから漂う香りにアウローラは覚えがあった。 「この匂いは……」  ユーザはクリームを掬いかけた指を止めてアウローラに顔を向ける。 「新しいハンドクリーム……嫌いだった?」  いつでも景色は涙で滲んでいるようだ。夜の闇は滲んだ輪郭をさらに隠す。 「いや、そんなことはないよ。……好きな香りだ」  「前からずっと」と続けかけて、アウローラは寝転がったままユーザの声に両手を伸ばした。  甘く、暗く、這うような温さがアウローラの指先に触れた。