ラビットフット/ベアトラップ 2024/05/23  この人はあたしに殺されたいんだと思う。  らびがそれに気付いたのは、ユーザから血を吸うのがもう何度目になるのか、数えるのをやめた頃だった。痛み止めの名目でチャームをかけられた時だけ、ユーザの濁った眼に光が灯る。吸血鬼に偽造された幸福に浸っている間だけ、ユーザは首筋から流れる血を止めようともせずに、媚びたように甘い声を出す。  チャームの作用だけではない、何かおかしなことが、おそらくらびがユーザと出会うよりも遥か以前からユーザに起こっているのだと気付いても、らびはそれにどう触れれば良いのか分からなかった。 「らびのこと信じてるからね」とユーザに言われるたび、らびは「それは嘘だ」と叫びそうになる。信じているというのは真っ赤な嘘で、信じていないからこそ、ユーザはらびにチャームをかけさせ、ブレーキのない状態で吸血をさせるのだ。うっかりらびが血を吸いすぎて、自分を殺してしまうのを期待して。  初めて店に来た時には烏龍茶しか飲まなかったユーザが、ある時には嗜む程度に上手く呑んだかと思えば、またある時には特に荒れているわけでもないのに、店のトイレで吐くほど呑む。酒を呑みなれていないというよりは、別の何かが馴染んでいないという風に、酒量やその勢いすらもコントロールできないでいる。薄暗い照明の下で、冷たく硬い床のタイルに膝をついて、胃液と酒が混ざった嘔吐を繰り返すユーザの背中をさすってやりながら、らびはそれが堪らなくなる。  らびがビールを三杯飲み干す間に、ユーザは席について最初に注文した度数の高い酒を、やっとグラスの底が見えるまで飲み終えたところだった。 「オタクちゃんってどこに住んでるんすか?」  自身が吸血鬼であると明かし、それを受け入れられたという間柄であっても、らびはユーザの名前と血の味の他には何も知らなかった。それが急に不安になって、本当に他愛もない質問を、わざわざ何でもない風を装いながらしてしまう。 「人間はその気になればどこにだって住めるよ!」  ユーザが酔っている時に訊いたのは不味かった。らびにはユーザの言葉が酔っぱらいの戯言か、住所も言いたくないという拒絶かも分からないのだ。 「オタクちゃん、一杯で酔いすぎっすよぉ」 「じゃあ帰ろうかな! 酔ったから! 外までお見送りしてください!」  「ここでは『出掛ける』って言うんすよ」と、酩酊した常連に言っても意味がない。らびはユーザから渡された数枚の紙幣と引き換えに小銭を返し、バックヤードで着替えてから店を出た。丁度バイトも終わる時刻だったのだ。 「らび、お腹空いてない?」  少し歩いて夜風を浴びている間に多少は酔いが醒めたのか、店を出る前よりは幾分ましな調子でユーザが言った。 「空いてないって言ったら嘘になるっすけどぉ……」  らびの腹の虫が鳴る。浴びるほど呑んだ酒と水は渇きを癒す足しにはならない。 「私の血、吸って良いんだよ?」  首を傾け、服をずらして、首筋を見せびらかすように誘うユーザと目が合って、らびは却って冷静になった。 「痛みで暴れちゃったら危ないから、チャームはかけてね」  いつもならユーザに言われたとおりにするだろう。初めてユーザから血を吸う時にはしなかったが、首筋に牙を立てて皮膚を食い破るのだから、麻酔としてチャームが必要だというのはいかにもそれらしい理由ではある。しかし、今日のらびはそもそも血を吸う気にはなれなかった。 「や、今日は良いっすよ」 「……なんで?」 「最近のオタクちゃんの血ってぇ、なんか、薄いんすよねぇ」  断る口実として出任せに言ったことだが、実際、ユーザの血は薄くなっていた。吸血によって失われる血の量に対して、生産が追い付いていないのだ。それは、それだけらびが頻繁に、かつ大量にユーザの血を吸っているということでもあった。 「……薄かったら要らないんだ」  ユーザの酔いは完全に醒めていた。その様子にらびは何か嫌な気配を感じて尻込みしてしまう。 「……そうじゃなくってぇ……このままだと、あたし、いつかオタクちゃんを殺しちゃう……そんなことしたくないよお……」  らびは自分の声が震えているのを感じた。  死に向かう者を止める手段がらびには分からない。ただ、手を下す側にも回れはしない。らびは友達を殺すために血を飲んでいるわけではないのだ。 「そっか……」  自分で乱した服を整えながら無言で数歩足を進めてから、何を思ったか、ユーザは堰を切ったように話し出した。 「らびが吸血鬼にされて、色んなことができなくなったって話を聞いた時、私はらびが可哀想だと思ったけど、同時に、可哀想だとは思わなかった」  何を言っているんだ、と、らびは思った。 「私は元から、ご飯なんか全部仕方なく食べてるし、モデルなんかできないし、外にも一歩も出たくないから。らびは特に理由もなく人生の色んなことを楽しんで、大した理由もなくそれを奪われたけど、私は特に理由もなく、最初っからなんにも楽しくないし、奪われて困るようなものも何も持ってないから。……一般的な感覚で言えば可哀想なんだろうけど、私と同じになっただけだよ、らびは」  慰めというよりは、自分本位な自嘲と哀れみの色の濃い声だった。 「私はらびを信じてるから、いつらびに血を吸われても良いよ。でも、それで良いと思ってたのは私だけで、らびは代わりに、自分一人だけで自分を抑え込まないといけなかったんだね」  「らびを信じてる」というユーザの言葉を信じられないのは、らびがそれを嘘だと看破しているからではない。他でもないらび自身が、らび自身を信じていないからだ。いつか自分が吸血鬼の本能的な衝動のままにユーザを殺してしまうと思っているからだ。 「私は自分がいつどこで死んでもどうでも良いけど、らびは私を殺さないと思うな」 「……何を根拠にそんなことが言えるんすか」 「らびは化け物じゃないから」  チャームのかかっていないユーザの眼はやはり濁っていた。人生という痛苦に一時の誤魔化しはあっても、それは希望にはなりえないという人間の眼だ。それは変わらない。 「私、らびが化け物だったら良かったなぁ。友達じゃなくて、私を幸せな内に殺してくれる化け物だったらなぁ」  らびは一瞬、ユーザの頬に涙痕が光ったように見えたが、次の瞬間にはユーザの袖に拭われて分からなくなっていた。 「私、あそこに住んでるんだ」  ユーザは分かれ道から数キロ先の高層マンションを指さした。  らびは急に笑いが込み上げてきた。 「あれぇ? オタクちゃん、あたしに家教えてくれるんだぁ? 駄目っすよお。誰にでも教えたらあ」 「訊かれたから答えたんだけどなぁ。あと、誰にでもは教えてない」 「確かにあたしが訊いたあ」  友達の家がどこにあるのか聞いただけのことが、らびにはおかしくて仕方がなかった。人の生き死にも、吸血鬼も、自分たちには関係のないことのように思えてきた。自分は最近仕事で会った客と友達になって、今日はその友達と仕事明けに話をしながら帰っているだけなのだと思えてきた。 「ねね、今度、オタクちゃんの部屋、行って良い? お酒も買って行くからあ」 「良いよ。でも、私、お酒はお金払って作ってもらう方が好きなんだよね」  そのまま二人で、最近買った香水がどうとか、新しいドラマがどうのというような話を少ししてから、 「またお店に行くからね」と言って、ユーザは駅に向かって歩き出した。路地から大通りに出ると、あっという間に雑踏に紛れて、すぐに見えなくなった。  ユーザが見えなくなるまでその背中を見送ってから、らびはそっと自分の帰途に就いた。途中、自販機でペットボトル入りの水を二本買って、一気に飲み干した。