エピローグ:ありふれた呪い 2024/11/17  兵睨岳永美は何もない空間にいた。正確には、質素な椅子が一つだけ置いてある、真っ白な部屋の中だ。  わけも分からず周囲を見渡す永美の視界の端に、脳天から爪先まで純白の女神、『ブリュンヒルデ』が現れる。 「『人生パッチ』は異能者が死ぬと効果が切れるタイプの『超人力』だったみたいだね」 「……ありえない」  こと超人力の行使において、「ありえない」ということはありえない。そもそも、永美に人生パッチをもたらした『造答女神』は、何も特別な存在などではない。『GoddessOverRide』を上書きしている大多数の女神たちと同じく、外界から訪れたというだけの、超人力のランクもたったの14しかない、平凡な粘菌でしかなかったのだ。  自身の死亡によって、人生パッチによる「転生の禁止」を無効化された永美がいるのは、転生を控えた者が女神に来世での『チート』を授けられる場所、『女神空間』の中だった。 「異能者の死亡で人生パッチの効力が切れるなら私は女神核から再生する筈だ。核の再生だけは封じられたままどころか、人間として転生待ちの状態になるなんて……」 「『都合が良すぎる』? ……ボクは永美に再生してほしかったけどね」 「……造答女神はどうなった?」 「ものすごくゆっくりだけど、女神核の破片が再生してるよ。あいつは転生しないみたい」  元が人間かどうかでその後に変化があるのだろうか。現時点で真実を知る者はどこにもいない。 「でさ、永美、来世で使える『転生チート』は何が良い? ポイント制だからなんでも自由にとはいかないけどね」  永美は失望していた。人類を害する異種族を世界から取り除くこともできず、かといって自らが三千世界からいなくなることもできない。何も手に入らず、何も手放せない。これを失望と言わずして何と言うのか。 「……来世は粘菌にして貰えるかな」 「粘菌?」 「何も考えず、何も感じず、あらゆる狂気と無縁の何か……」  転生は人間のみに許された、いわば特権である。人間以外の生物に転生することは、その先──次の転生を拒絶するという意味だった。 「……良いよ」  ブリュンヒルデは転生者に希望された契約を拒否しない。それがどれだけ双方にとって都合の悪いものであったとしても、可能である限りにおいて履行するのみである。  既に死亡し、この後は粘菌としての生を経て、輪廻の輪から完全に消滅するとして、永美にはその前にやっておかなければならないことがあった。 「転生まであとどれくらいかかる?」 「まだ少し時間があるよ」 「それなら、少し話でもしようか」 「うん、良いよ。座って」  リツは部屋にある唯一の椅子を永美に勧めた。永美は素直に腰を下ろす。 「……リツ、あなた、私のことを母親だと思っているよね。……違ってたら恥ずかしいけど」  リツは意表を突かれて飛び上がりそうになった。自分では上手く隠せているつもりだったのだ。 「……知ってたんだ」 「どうして私なの?」 「どうしてって……母親を母親と思うのに理由が必要かな? 永美はボクに良くしてくれたし……」 「そう……」  狂気の異能、『乾察眼』が無際限に集めた情報をもってしても、自身が女神と化してみても、結局女神の情感は分かりそうもない。永美は嘆息した。 「……嫌、だったかな……」  リツは不安げに永美の顔色を窺う。 「嫌ではないよ。……ただ……あなたが母の願いを一つ聞こうと思うなら……これから先もこの狂った世界で生きていかなければいけないGoddessOverRideの人間たちを守ってあげてほしい」 「それはもちろん……永美に頼まれなくても……ボクはヒーローだよ」  永美が唱えたのは紛れもない呪詛だったが、リツはそれをただ受け入れていた。  女神を「罪業濡れの粘菌」と呼ぶにはあまりにも無垢なその姿に、今更になって永美は胸を締め付けられた。これが親を喪う子が受ける仕打ちとして相応しいものか、分からなくなっていた。  永美は無意識に立ち上がってリツに歩み寄り、両腕をいっぱいに使ってリツを抱き締めていた。リツは一瞬身体を固くしたが、すぐに落ち着いて、ゆっくりと永美を抱き返した。 「……できる限りで良いよ……可哀想な雛鳥……あなたにも何か遺してあげようかという気持ちはあるけど……」 「気にしなくて良いよ……嘘でもそう言ってくれるだけで嬉しいから……。……でも、そうだな……じゃあ、永美、君のことを覚えていても良い? これから先、君がいない世界で生きていかないといけないボクのために、ボクの思い出の中でずっと一緒にいてくれる?」 「……あぁ……良いよ……そんなことで良いなら……」  永美はリツを抱いたまま、深く息を吸って、吐いた。  無限の時を生きる女神は、女神以外の全ての「誰か」と無限に別れを繰り返す。それは強欲な女神が抱える負債に対する、永遠に終わらない返済だ。  人は誰しもありふれた呪いの中で生きている。女神もそうだというのなら、人間と女神を区別する必要はあっただろうか。 「……永美、本当に来世は人間じゃなくて良いの?」 「……そうだね。私はあらゆる人間に来世はあるべきではないと思うし……。何より、私は少し疲れすぎたよ」 「そっか……。……ねぇ、永美……永美は女神を憎んでる?」 「いや……考えたこともないよ。人間はいつか女神を倒さないといけないと思っていたけど、今はそれも間違いだと分かった」  永美の視界が徐々に白んできた。転生の時が近い。  リツは最期にもう一度だけ、永美を抱き返す腕に力を籠め、その胸に深く顔をうずめた。 「ボクらを赦してくれてありがとう。……おやすみなさい、お母様」 「おやすみ、リツ」  全てが完全な純白に塗りつぶされ、まもなく次の生が始まる。リツはただ、それが平凡であることを祈っていた。